宮沢賢治と〈一心〉(1/2ページ)
京都芸術大教授 君野隆久氏
かつて宮沢賢治の全集を端から端まで読む機会をもった。書簡の巻を読んでいた時、次のような一節に行き当たった。《戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候 その戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も皆等しく法性に御座候》(大正7年2月23日・宮沢政次郎宛)
戦争も病気も学校も家も山も雪も、すべて「一心」の現象である――これを読んだとき、忘れ去っていたものに再会したような驚きを抱いた。というのも、私事で恐縮だが、20代前半に早稲田大学大学院文学研究科で、天台密教が専門の三﨑良周(1921~2010)先生のゼミに参加し、「伝述一心戒文」という文献の講読に出席したことがあったからである。私にとってこの文献は難解きわまりなく、なぜ「一心」と大乗戒設立が関係あるのか、当時ほとんど理解できなかった。その後私は日本仏教の研究から離れてしまい、「伝述一心戒文」を読む苦労も遠いものになっていたのだが、賢治の書簡の中で、忘れ去っていたはずの「一心」という語が、思いがけなく立ちあがってきたのである。
大正7年は賢治22歳になる年で、盛岡高等農林学校を卒業し、将来の方針をめぐって父・政次郎とたびたび手紙をやりとりしていた。一方で高等農林学校の親友であった保阪嘉内が除籍処分を受け、賢治自身には最初の結核の徴候が診断されるという転機の年だった。賢治はすべての現象がおのれの「一心」に起因することだという唯心論的な世界観で自分の揺れてやまない精神を鎮めようとしたのかもしれない。「一心」という語を使わないまでも、大正7年の賢治の書簡には、似たような言説をいくつか見ることができる。そしてそれは大正13年に刊行された『春と修羅』の「序」における「これらについて人や銀河や修羅や海胆は/宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら/それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが/それらも畢竟こゝろのひとつの風物です」のような表現の中ですっかり自家薬籠中の物になった様子をうかがわせる。
「一心」という言葉は、華厳経の「三界唯一心、心外無別法」をはじめとして、さまざまな仏典にあらわれる。賢治は仏典や講話のどこかからそれを学んだのであろう。しかし、ある語を学ぶことと、それを実感をもって体得することとはまた別の問題である。出家であれば、このような仏教上の知識を、行(修行)を通して理解し、生きた知識として活用できるように咀嚼してゆくものだろう。賢治は出家ではないが、この「一心」の思想を単なる知識として振り回しているのではなく、創作の基盤となるべき実感として会得しているようすがうかがえる。では賢治はいつ、どのようにして、すべての現象が「一心」に起因するという思想をつぶさに体得したのだろうか。
注目したいのは、賢治が盛岡高等農林学校時代にしきりに制作していた短歌である。賢治の短歌はある意味で後の詩や童話を予見したものだが、その中に次のような作がある。