戦士たちの冑佛信仰(1/2ページ)
日本甲冑武具研究保存会評議員 河村隆夫氏
冑佛信仰とは、兜に秘める小仏信仰のことである。
本研究は、静岡県島田市指定文化財「御林守河村家住宅」に伝わるひとつの伝説から始まった。御先祖様が戦場で兜に秘めて戦ったと伝えられる河村家の冑佛は、像高僅か2㌢、小さな宝冠を戴き、智拳印を結んだ大日如来である。
このように冑佛とは、研究を始めた1993年以前は、河村家内部で言い伝えられていた呼称であり、当時、兜に秘める小仏信仰について知る者は、全国的にほぼ皆無であった。以来筆者は全国に点在する冑佛を約20体確認したが、たとえば源頼朝は「髻観音」、前田利家は「勝軍地蔵」のように、限られた地域ごとに異なった名称で呼ばれ、兜に秘める小仏群には総称がなかった。冑佛の全国的研究がなされていなかったからである。
調査の結果、戦士を守護する神仏の小像はじつに多様であった。即ち、戦士は幼少からの個人史に由来するそれぞれ個別の冑佛を信仰していたのである。
筆者は、30年間の研究成果を、文化庁所管の社団「日本甲冑武具研究保存会」の機関誌『甲冑武具研究』に発表してきた。拙稿「冑佛考(四)」は要約が英訳され、世界の研究機関に贈られたから、海外の研究者は日本の武将が兜に秘めた小仏を、今後「kabuto-botoke」と呼ぶであろう。
神奈川県の寒川神社に、武田信玄が奉納した六十二間の筋兜が保存されている。この兜に秘めた信玄の冑佛は、山梨県表門神社に伝えられているが、それを嚆矢として、次々に冑佛が歴史の闇から浮かびあがってきたのである。しかし、信玄と対峙した上杉謙信は自らを神仏の化身と考え、兜の前立に大きな飯縄権現像を立てたりした。この謙信の信仰姿勢は、他の冑佛信仰とは異なるものと筆者は考えている。多くの冑佛は、他言せず、他見を許さず、生涯の秘仏とされたからである。
筆者の祖先河村秀高は源氏の御家人で、嫡男義秀は相模河村城を継ぎ、四男千鶴丸は頼朝の御前で秀清の諱を賜り、奥州に所領を得た。その河村秀清伝来の冑佛が岩手県で発見され、さらに冑佛は県下一帯に広く分布していることも明らかになった。そしてその淵源は秀清の主君、頼朝の髻観音であろうと推察されたのである。
源頼朝が石橋山で敗れ、洞窟に髻観音を安置したことは『吾妻鏡』に記されていて、この頼朝の冑佛信仰が始源となって、その風習が御家人たちに広がったものと筆者は考えている。それは秀清以外の御家人にも冑佛信仰がみられるからである。
たとえば和田義盛の「灰練地蔵菩薩ノ像」は、和田合戦の戦場で息絶えんとする義盛が孫の朝盛に託したもので、「義盛常ニ兜ノ八幡座ニ安置セラレシ」一寸二分の秘仏として、神奈川県三浦市初声町の五劫寺に伝えられていた。
また『平家物語』の「敦盛の最期」で知られる熊谷直実は、若き敦盛の首を落とした苦悩に耐えかね、法然上人に帰依して法力房蓮生と称した。しかし、直実の冑佛は浄土宗の阿弥陀仏ではなく、一寸三分の太子像であり、今も静岡県藤枝市の熊谷山蓮生寺に寺宝「兜中守佛」として伝えられている。