沖縄摩文仁の丘の慰霊塔・碑文が語りかける戦争の記憶(2/2ページ)
大谷大教授 福島栄寿氏
⑥沖縄哀悼(沖縄への悼みを表すもの)
沖縄戦での沖縄住民の戦死者数は日本軍将兵をはるかに上回ったが、その沖縄に言及した都道府県慰霊塔は、3基にとどまる。「多くの沖縄住民も運命を倶にされたことは誠に哀惜に絶へない」(京都府)、「沖縄県民の尊い人命を奪い」(滋賀県)、「沖縄の人たちとともに」(岡山県)がすべてになる。「沖縄差別」が叫ばれて久しいが、「沖縄無視」(真鍋)の碑文がそのままとなっている。
⑦沖縄楯・外地(沖縄を本土の楯、外地としてとらえたもの)
各都道府県の慰霊塔建立は本土復帰前であったため、自県出身者の死地を「海外において」(福島県)と刻む。また「祖国防衛の御楯」(大阪府)、「本土防衛最後の戦場」(岩手県)と、本土を守る楯と見なす表現は、沖縄が「捨て石」であったことを想起させる(真鍋)。
碑文の表現が書き換えられた事例を二つ紹介したい。
①神奈川の塔
神奈川の塔は、歴代3人の知事がそれぞれ碑文を寄せている。1965年に建てられた碑文には、「われわれ神奈川県民は大東亜戦争終戦ここに20年を迎えるにあたり、南方諸地域において祖国の興隆を信じて参戦し、惜しくも異郷に散華せられた、み霊のご冥福を祈るため、ここ摩文仁の丘にふるさとの銘石を運びつきぬ平和への願いをこめて『神奈川の塔』を建立しました」と、「大東亜戦争」という文言が見られる。
次に90年建立の碑文には「先の大戦において、沖縄をはじめ南方諸地域で戦没された4万余諸霊のご冥福を心から祈ります。(中略)ふたたび戦争がくり返されることのないよう800万県民とともに永遠の平和への誓いを新たにします」と、「大東亜戦争」は「先の大戦」に書き換えられ、「永遠の平和への誓い」を込める。
三つめは、2014年建立の碑文。「戦争の悲惨さと平和の尊さを、未来を担う次の世代へしっかりと継承します。戦没者の皆様の永久の安らぎを心よりお祈りします」と、戦死者を「霊」ではなく「戦没者」と表現し、「戦争の悲惨さ」という文字を新たに刻む。
②近江の塔
1964年建立当時の碑文。「言語に絶する悲壮な沖縄の戦いに祖国のため尊い一命を捧げられた本県出身壱千六百七十三柱の御英霊をお慰めせんとする議、県内に澎湃として起り昭和三十九年二月二十四日慰霊顕彰会を結成し県民の浄財を基として郷土の香り高き清石をもって緑り深い此の地に近江の塔を建立して御霊を合祀する」
次に、91年に書き換えられた碑文。「言語に絶する苛烈な沖縄戦は、十数万人にものぼる多数の兵士や沖縄県民の尊い人命を奪い、本県出身の多くの兵士も、愛する妻や子・父母の待つなつかしい故郷に再び還ることなく、この沖縄とその近海において一命を祖国に捧げられたこれらの戦没者に対し、慰霊のまことを捧げるため慰霊顕彰会を結成し、県民の浄財を基として昭和三十九年十一月に近江の塔を建立した。以来二十七年、長年の風雨に堪えたこの塔を滋賀県の援助により改修し、戦争の空しさ・悲惨さを次代に正しく伝え、世界恒久平和への実現にむかってたゆまぬ努力を続けることをここに誓う」
戦死した沖縄県民への哀悼の言葉、「戦争の空しさ・悲惨さ」、世界恒久平和実現への努力という文言を刻む。
言うまでもなく、碑文には、その時代の歴史認識が如実に反映している。3年にわたる碑文調査で、強く印象に残ったことは、いくつかの県で文面の書き換えがなされていることである。
そもそも碑文の文面に唯一の正解があるわけではなかろう。思えば、アジア太平洋戦争・沖縄戦の記憶と認識のあり方は、これまでも更新されてきた。碑文の吟味は、戦争・沖縄戦・戦死者に思いを致すことにもなるだろう。反対に忘却は、それらの記憶と歴史を風化させるだろう。
しかし、どうだろうか。摩文仁の丘に建つ慰霊塔・碑、そして碑文の存在そのものの忘却が進んでいるのではないか。ロシア軍のウクライナ侵攻に驚愕し戦慄を覚える最中に沖縄の本土復帰50年を迎えた今年、私たちは、歴史を蔑ろにしないための、いかなる碑文を刻むべきだろうか。私たちが、歴史と向き合う姿勢が問われている。