立正大師諡号宣下100周年と本多日生(2/2ページ)
佛教大社会学部教授 大谷栄一氏
つまり、この諡号降賜が国民の思想善導に多大な役割をはたすことが強調されている。当時、第一次世界大戦(1914~18)、ロシア革命(17年)、朝鮮の三・一運動(19年)等、国際秩序を大きく揺るがす出来事が頻発していた。国内でも大正7(18)年の米騒動以降、普選運動や社会主義運動、労働運動、農民運動等、社会変革を主張する社会運動が高揚し、「改造」が流行語になっていた。こうした国内外の動乱に対して、日生たちは日蓮主義の教化による社会秩序の安定化を意図したのである。政府もまた、当時の日本社会で広く人気のあった日蓮主義による国民思想の「善導」を期待した。
請願書提出から1カ月後の10月10日、宮内省から日生に一通の通知が届く。「日蓮宗宗祖日蓮へ諡号宣下候間来ル十三日午前十時参省可有之候也」と記してあった。同月13日、不受不施講門派をのぞく各宗派の管長(および管長代理)8人は皇居に参内し、宣下書を受け取った。この日、日蓮門下の管長連名で訓示(おそらくは日生の執筆)が発表され、各宗派に布達された。それには、こう記してある。「我等立正大師門下ノ僧俗ハ愈々益々精励シテ追賞ノ聖旨ニ奉答シ立正大師ノ遺教ヲ発揚シ以テ立正安国ノ実現ヲ期シ進ンテ理想的文化ノ建設ニ寄与セスンハアラス」、と。また、「清新ナル時代適応ノ教化ヲ盛ニ」することも力説している(同前)。
11月6日、東京上野の自治会館で2500人の関係者が参集し、盛大な奉祝大会が催された。以後、北海道から東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州地方までの全国各地、遠く満洲やロサンゼルスでも奉祝行事が挙行され、諡号宣下は日蓮門下関係者を挙げての祝賀的な出来事となった。
なお、日生にはこの諡号請願にもう一つの重要な意図があった。それは、日蓮没後に分立し、対立してきた日蓮門下教団全宗派の統合である。「近代日蓮門下の一異彩」(常光浩然)と評される日生は、明治29(1896)年12月に統一団(現在の一般財団法人本多日生記念財団)を結成以来、日蓮門下の統一を掲げ、その実現に傾注してきた。その取り組みが実り、大正3(1914)年11月には(不受不施派、不受不施講門派を除く)日蓮門下7教団の統合が決議され、現実化する。しかし、大正5(16)年に日蓮宗が離脱したことで、統合は挫折した。
こうした状況を踏まえて、日生は門下の協調行動によって諡号を奏請し、実現させたのである。先の訓示では「各派ノ融合」が強調されており、実際に諡号宣下の翌年には門下統合が計画され、そのための規約もふたたび締結された。しかし、この時も統合は実現せず、結局、昭和14(39)年公布の宗教団体法によって、日蓮門下は意図せざる形で三派に分かれて統合されることになる(三派合同)。
この立正大師諡号宣下を、当時の日蓮門下(在家者も含む)の大勢は支持した。しかし、それを批判した人物もいた。日蓮宗大学(現在の立正大学)教授の田辺善知である(元顕本法華宗、当時は日蓮宗所属)。田辺は『中外日報』大正11年10月22日号に「大師号に就て(日蓮の価値は半減した)」と題する論評を寄稿した。諡号宣下は「平民的日蓮の特長を奪つて貴族化させたのだから、民衆的時代への逆行ともなり、日蓮の価値は寧ろ半減する」と痛烈に批判した。この論評が「宗門内に賛否の物凄い喧嘩」(『読売新聞』同年11月18日号)を引き起こした。結局、田辺は宗籍をはく奪され、大学も罷免となった(矢吹前掲「諡号『立正大師』宣下をめぐる問題」参照)。
この大師号をはじめとする僧侶への諡号は、天皇と仏教界との結びつきを意味するシンボルであり、天皇による当該僧侶や教団の権威づけとしても機能する。日生や智学をはじめとする近代の日蓮門下の大勢は、日蓮門下が天皇と積極的に交渉することで「法国冥合」「王仏冥合」「立正安国」を達成することを希願した。諡号宣下は、日生たちにとって理想世界を実現するための重要な手段であった。こうした近代日本の天皇と仏教界の関係は、近代仏教研究では検討が不十分な領域であり、今後の研究の進展が望まれる。
現在でも大師号を肯定する立場もあれば、否定する立場もあろう。令和の現在も大師号が賜与されており、諡号問題は歴史的な問題であると同時に、現在的な問題としてもある。大師号の近代的・現代的意義を考えるうえで、100年前の立正大師諡号宣下をめぐる問題は重要な問いかけを私たちに投げかけている。