立正大師諡号宣下100周年と本多日生(1/2ページ)
佛教大社会学部教授 大谷栄一氏
今から100年前の大正11(1922)年10月13日、大正天皇から日蓮(1222~82)に対して、「立正大師」の大師号が宣下された。大師号とは、高徳の僧に朝廷から贈られる諡号のことである。諡号とは死後に名づけられる称号のことで、日本では天皇、臣下、僧侶に付与された。僧侶への諡号には、ほかに菩薩号、国師号、禅師号がある(国師号や禅師号は生前に与えられる場合もある)。
そもそも大師号は、貞観8(866)年の最澄への「伝教大師」、円仁への「慈覚大師」に始まり、今年(令和4年)2月の隠元に対する「厳統大師」まで、10宗25人に対して計34が賜与された。日蓮に対しては、延文3年=正平13(1358)年に「大菩薩」の菩薩号が下賜されている。また、江戸時代に大師号の奏請が行われていたことも先行研究で明らかになっている(矢吹康英「諡号『立正大師』宣下をめぐる問題」『法華仏教研究』31号、2021年)。しかし、その実現は大正時代を待たなければならなかった。
では、立正大師諡号宣下はどのように実現したのだろうか。
その発案者は、顕本法華宗管長で日蓮主義者の本多日生(1867~1931)だった。「日蓮主義」という近代仏教思想は、明治31(1898)年に在家仏教教団・国柱会(当時は立正安国会)の田中智学(1861~1939)によって創唱され、智学と日生の影響力によって、明治末年以降、広く世間に知れわたった。大正時代には「日蓮主義の黄金時代」(戸頃重基)と評されるほど、一世を風靡する流行思想となる(拙著『日蓮主義とはなんだったのか』参照)。こうした日蓮主義の流行の中、大師号の請願が行われたのである。
大正11年8月4日、日生は東京鶯谷の国柱会館で盟友の智学に面会し、諡号宣下を政府に求めることについて意見を求めた。智学はこう答えた。随自意的に考えると、請願は宗教の本領と日蓮の事業の抱負からは不可である。なぜならば、諡号宣下は法国冥合(日蓮仏教と国家との政教一致)が実現した際になされるものだからである。ただし、随他意的に考えると、これまで国家が日蓮主義を公的に認める機会はなかったので、日蓮主義に対する国家の公的な接触を促すためには可である、と(「法国冥合の第一歩」『天業民報』649号)。
こうして智学の賛同を得た日生は、日蓮門下の各派管長に交渉し、日生と親交のあった名士たちの協力も得て、9月11日付で宮内大臣宛ての請願書を文部大臣経由で提出した。出願者として、日蓮門下教団9宗派の各管長(日蓮宗、日蓮正宗、顕本法華宗、本門宗、本門法華宗、法華宗、本妙法華宗、日蓮宗不受不施派、日蓮宗不受不施講門派。名称は当時のもの)と、在家の賛同者11名(東郷平八郎、加藤高明、床次竹二郎、小笠原長生、犬養毅、田中智学、佐藤鉄太郎等)の名前が記されていた。
請願書(執筆者は日生か?)では、日蓮がわが国歴史上の「高僧」であり、宗教上からは「聖者」、思想上からは学者で「国民善導ノ先覚者」、国家的には「勤王愛国ノ国士」と位置づけられている。また、皇室はこれまで歴史上の高僧に尊号を賜ったが、日蓮にはその追賞がなされていないと述べ、現在のわが国は人心の向上を促し、思想の健全化が必要な緊急時であり、日蓮の徳を表彰することは国民全体への警醒の効果があると強調している(『立正大師諡号奉戴記事』立正大師諡号奉祝事務所、1923年)。