「花まつり」を考える(1/2ページ)
浄土宗戒法寺住職 長谷川岱潤氏
我が国では4月8日に、お釈迦様のお誕生をお祝いする降誕会(花まつり)が行われる。しかし、他の国では少し違うようである。
まずテーラヴァーダの仏教の国々タイやスリランカなどでは、お釈迦様の誕生の日にちは、インドの陰暦の第二番目の満月ヴァイシャーカ(ウェサカ)月の後半8日から15日とされ、この日はお誕生だけではなく、お釈迦様の三大聖日といわれる、お悟りの成道会とお亡くなりになられた涅槃会も合わせて、1週間にわたってウェサカ祭を行っている。ちょうど太陽暦では5月の後半に当たり、日本の旧暦の4月8日と同じ時期となる。
日本の降誕会が4月8日とされているのは、漢訳の『太子瑞応本起経』巻上や、『仏所行讃』一巻に、釈尊の誕生日を4月8日にしているためで、漢訳本の中には陰暦第二の月ということから、2月8日と訳している本もあるときく。いずれにしても後代の解釈によるものである。
しかし日本以外のアジアの国は、正月を陰暦で行う地域も多く、たとえば韓国では降誕会は陰暦の4月8日、現在の5月に、プチョニム・オーシン・ナル、直訳すれば釈迦がおみえになった日、降りてこられた日といい、祝日となって、お寺の境内一円、また町中に提灯を飾り盛大にお祝いしている。
さて、日本で最初に降誕会を行った寺は、飛鳥の元興寺で、聖徳太子在世の606(推古14)年、釈尊誕生祭として「灌仏会」が行われたとの記載がある。この元興寺は蘇我馬子によって、日本で最初に建立された法興寺、すなわち奈良県高市郡明日香村の飛鳥寺を指すものと考証されている。その後宮中で840(承和7)年に清涼殿で灌仏会が催され、以後一般寺院にも普及するようになった。
東大寺には大仏開眼の折の「灌仏会」で使用されたとされる、銅製で厚くメッキされている釈尊誕生仏が今でもまばゆく輝いている。
釈尊が誕生された処とされるルンビニーの花園を象徴する「花御堂」が作られるようになったのは室町時代からであり、室町時代中期以降は特に盛んとなって、次第に諸国の寺院でも広く行われるようになったようだ。
また、「甘茶」による灌仏は江戸時代からで、それ以前は五色の香水が用いられていたようだ。
そうして江戸時代になると「灌仏会」は大きな盛り上がりを見せ、江戸の回向院、増上寺、浅草寺、また大阪の四天王寺などは、多くの参拝者でにぎわい、「灌仏会」の寺としても有名になったといわれている。
このように「灌仏会」が日本人の宗教生活に溶け込んでいった理由の背景には、民間信仰を忘れることはできない。陰暦の4月8日は初夏に当たり、「卯月八日」といわれる行事がある。これは祖霊祭の行事で、この日霊山に登ってヤマツツジなどの山の花を摘み、天上、あるいは山上から神様を迎えるために、花をさおの先に掲げて各家の庭先、あるいは田んぼに立てることが近畿地方を中心に行われていた。これは、やがてそこの田の神となる神を迎えて、農耕を守ってもらうという信仰である。
つまり4月8日は農作に着手する、つまり田植えを行う日で、その日に魂祭りを行っていたのであろうと思われる。
現在の知恩院の伊藤唯真猊下の論文「灌仏会と供花」にも、4月8日が定着してゆく背景には、初夏の祖霊祭、神迎えがあったことが書かれている。
これらのことから、日本でも他の国同様に陰暦で行うことがふさわしいと思われる。日本の年中行事は、桜の前に無理して桃を咲かせ、梅雨の遙か前に菖蒲湯につかり、梅雨の最中に七夕を観賞するなど、新暦で行うことによって自然現象と行事があっていないことが多い、釈尊の「降誕会」もその一つと言えるだろう。