宗教と自己存在の問題について(2/2ページ)
時宗教学研究所研究員・一向寺住職 峯崎賢亮氏
臨床の場における「末期癌」の宣告は、まさに絶望感を人にもたらす。根治が不可能であるから「末期癌」である。終末期医療における「新たなる未来の構築」は、いわゆる「あの世」が信じられるか否かにかかってくる。仏教における浄土にしろ、キリスト教における神の国にしろ、死後の世界が信じられるか否か、という問題である。ただ実際の臨床現場では、個人の宗教心をあてにするのみではなく、家族との関わりという、関係存在の強化で対処することが多い。
関係存在とは、自己の存在を認識する為には、他者が必要である、という事である。例えば、夫という存在には妻が必要であり、医師という存在には患者が必要である。そして、関係存在を支える最も重要なものが、相手からの「まなざし」であり、特に、記憶の中に残る、不在者からの「まなざし」であることを、筆者はすでに論じた(『中外日報』19年4月5日号「存在を支える『まなざし』の考察」)。
かつて内科医であった筆者は、患者からの「まなざし」によって、その存在が支えられていたことの意味を、引退して、直接的な患者からの「まなざし」を失って初めて、体験的に知った。また「まなざし」の中には、特定の他者、不特定多数の他者からの「まなざし」ばかりではなく、「あの頃の我」からの「まなざし」もあることに気づいた。「あの頃の我」とは間違いなく、現在においては記憶の中に残る不在者である。患者や患者の家族からの「まなざし」に応えるために、必死になっていた「あの頃の我」からの「まなざし」が、今となっては、情け容赦なく、筆者に重くのしかかる。
コロナ禍で、多くの医師達は、医療崩壊ギリギリの状況下で、医療現場を支えている。かつて筆者は、新臨床研修医制度のために、地方病院から若手医師がいなくなり、医療崩壊寸前に追い込まれた時代を経験している。あの時の、必死になって医療現場を共に支えあった医療スタッフからの「まなざし」が蘇る。今、現場に復帰しても、足手まといにしかならないことは充分に自覚しているが、「コロナ終息を祈るだけでいいのか」「俺はいったい何をしているんだ」という、忸怩たる思いに苛まれる。関係存在の喪失に伴う、自己存在の揺らぎは、何も他者との関係性の喪失ばかりでなく、「あの頃の我」との関係性の喪失によっても、もたらされることを知った。
自律によく似た言葉に自立がある。自立は医療現場では、トイレ、食事といった通常の日常生活を、自分一人で行うことができる事を意味する。一方自律は、自分で自分の事を決めることができる、という事をいう。
普段我々は日常生活において、自分が思うようにできることが当たり前のように思っている。しかし脳卒中により重篤な麻痺が生じると、また高齢になり足腰が弱ると、トイレ、食事といった当たり前のことが、自分一人でできなくなる。つまり生活上の自立が失われると、自分が当たり前のように「こうしたい」と思うことができなくなることで自律喪失が起こる。「こんなこともできなくなった私に、生きている意味があるのだろうか」という、自律存在の喪失がもたらす、自己存在の危機である。
筆者が内科医であった時代、自律存在の喪失に伴う嘆きを訴える高齢者を数多く診てきたが、筆者自身が、「高齢者枠」でコロナのワクチンを接種する年代に達した。現在、自立・自律に問題がないが、すでにこの苦しみを味わっている友人達がいる。
昭和を代表する禅僧、内山興正老師は晩年、NHKの番組に出演した時、坐禅ができなくなったら、念仏をやる、と言われた。坐禅ができなくなる、という状況は、まさに自己の自律存在が失われた時のことを意味する。そのような状況下においても、仏道を修することはやめない、という意志を示されたのであろう。
臨床現場では「人は生きてきたように死んでいく」と言われてきた。「半ちく」な人生を送ってきた筆者が、自律存在を喪失するような状況下で、内山老師のように、仏道を最後の最後まで貫く事ができるのであろうか。
機の深信とは、自分が罪業深重の凡夫であることを痛感することであるが、現代人にとっては、相当精神的に追い詰められた特殊な状況、つまり絶望感を背景にして生じる。筆者が、否応なく機の深信を自覚する状況に陥った時に、日々の称名念仏が、法の深信へと翻る契機となってくれる事を念じるほかない。