宗教と自己存在の問題について(1/2ページ)
時宗教学研究所研究員・一向寺住職 峯崎賢亮氏
哲学者西田幾多郎氏によれば、宗教の問題は、価値の問題ではなく、我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚した時、我々の「自己存在そのものが問題」となる時に生じるという。そして自己存在の根本的な自己矛盾の事実は、死の自覚にあるともいう。つまり自己存在は、死による「自己存在の喪失」を自覚することで、自己矛盾的に自己の存在に気づき、宗教の問題が生じる、ということであろう。
通常の日常生活では、漠然とこの生が継続するという思い込みで、予定、希望、期待といった未来を想定して生きている。死の自覚とは、漠然と信じてきた、ある種の絶対無限たる自己を、否定されるような事態に陥った時に初めて、自らの存在が、有限的で一度的な「個」であることを自覚するのである。自己存在は、その意味でも矛盾的自己同一なのである。
死の自覚を前提とした医療が終末期医療であり、その現場でしばしば議論される、臨床哲学的な自己存在に関しては、時間存在、関係存在、自律存在の三つに分けて検討されている。
時間存在の喪失とは、一言で言えば、未来が失われた、と感じられた時に生じる。死の自覚は未来に対する喪失感を伴うが、その喪失感によってもたらされる感情こそが、絶望感である。その意味でも、絶望感と不安感は別次元のものと言える。不安感と希望・期待感は、想定された未来に対する感情であるという意味で、同次元である。未来には不確定要素があるために、「想定外」のことが生じることで容易に、不安が期待へ、期待が不安へと裏返る。まさに不安と希望・期待はコインの裏表の関係と言える。
しかし絶望感は、未来の喪失に伴う感情である。未来自体の喪失なので、未来に対する感情である「希望」はおろか「不安」も起こらない。絶望によってもたらされる厭世観は、人が死なないでいるためのブレーキを外し、希死願望へと導いてしまう。西田氏がいうように、自己存在の崩壊の危機によって、宗教の問題が生じる契機ともいえる。
山折哲雄氏によれば、文芸評論家の亀井勝一郎氏は『歎異抄』の言葉によって人生の大きな転機を掴んだと言われているが、彼が戦前、社会主義に傾倒した結果投獄された時、親鸞によって社会主義から転向した訳ではなく、獄中で喀血し、結核による死の恐怖に直面して転向し、宗教心に目覚めたという。
学徒動員を余儀なくされた学徒が、背嚢の奥底に『歎異抄』を入れて出兵していった話は有名である。また大牟田俘虜収容所の所長で、上官からの命令を忠実に任務遂行した為に、戦後、東京裁判で死刑判決を受けて、刑死した福原勲元大尉は、教誨師花山信勝師の説法を契機に宗教心に目覚め、念仏往生を遂げたという(『中外日報』2010年8月5日号・7日号「終わらない戦後」㊤㊥)。
不安と希望はコインの裏表の関係であるが、絶望と希望とは、やなせたかし氏の詩にもあるように、ある程度距離のある「隣同士」の関係とも言える。隣同士の絶望と希望の間にある溝を埋めるには、何らかの契機が必要となる。希望が未来に対する感情である以上、絶望の淵から脱するためには、何らかの形で新たに「未来」が再構成される必要がある。それは絶望感の根本的原因の解消ではない。根本的解決が可能であれば、そもそも絶望感は生じない。絶望感をもたらした原因とは別の事象で、新たに未来を構築する必要がある。