西光寺結縁写経から見る法然と一切経との関係(2/2ページ)
佛教大仏教学部講師 南宏信氏
また形式的な点について、興聖寺本は1行あたりの文字数は17から18字である。一方西光寺本は一見すると字が詰まっていたり、書写者の癖があったりと統一感がないような印象を与えるが、1行17字でほぼ統一されている。そのため改行箇所によっては1行1字のみの結縁者も数人確認できる。かなり形式が整えられた経典を底本にしていたことがうかがえる。ではどのような経典が想定され得るのだろうか。
平安時代から、法然が活動した院政期から鎌倉初期にかけて、『法華経』信仰、末法思想や浄土教思想が広がりを見せ、仏の加護を得たいという人々がこぞって写経に励んだ。中でも『法華経』八巻に開経『無量義経』一巻と結経『観普賢菩薩行法経』一巻を合わせて十巻一具の書写が盛んに行われた。通常は素紙に墨書する形式の写経が一般的な中、紙を藍や紫などに染めたり、金銀泥で写経したりする「装飾経」と呼称される写経が各地に伝存している(島谷弘幸「装飾経の歴史」(展覧『最澄と天台の国宝』図録、2005年)。
さて、このように書写が盛んに行われる中で西光寺本の底本(日本古写経)を比定することは容易ではないが、今は法然周辺で調達し得る底本の可能性について触れておきたい。それは平基親(1151~?)の一族である。基親は『往生要集勘文』六巻や『往生要集外典鈔』一巻を著した浄土教者であり、法然に帰依し『選択集』の序文を作成したことで知られる。彼にはいわゆる「平基親願経」なる『法華経』十巻一具(治承2〈1178〉年)の装飾経があり、『無量義経』も現存している。
また父の親範(1137~1220)は承安4(1174)年、京都大原極楽院で出家して相蓮房円智と名のり、顕真(1131~1192、後に大原問答の発起人となる天台僧)と交流を持ちながら、諸種の善根に励んでいる。円智(親範)は治承元(1177)年に素紙一日如法経、十種供養の導師をしており(『相蓮房円智記』)、顕真自身もこの時期に大原で『法華経』の書写転読を勧進している(善裕昭「天台僧顕真と大原談義」〈『佛教大学総合研究所紀要』13、2006年〉)。
さらに遡れば装飾経の代表ともいわれる久能寺経(平安時代)の『無量義経』は、末尾に基親の曽祖父実親(生没年不明)の名が記されている。このように法然に帰依した基親の一族は『法華経』十巻一具を幾度となく書写し続けていることが分かる。特に円智(親範)、基親の親子における写経年次に関する記録はいずれも東大寺が焼失した治承4(1180)年の僅か2、3年前であることは注目に値する。これらを勘案するに法然たちは良質な経典を調達し得る環境にあったといえる。
もちろん天皇貴族らが作成した装飾経を容易に借り出すことができるのかということも考慮しなければならない。また「僧蓮仏」が書写した行には最澄『註無量義経』の一節が書き込まれている。もし底本を忠実に書写したのであれば、豪華絢爛たる装飾経を底本としていないのかもしれない。また法然周辺で調達が無理でも、他の結縁者のネットワークで調達した可能性も大いに考察する必要があろう。
だが円智(親範)が大原で行った一日如法経が「素紙」に書写されていることや法然と交流のあった顕真の『法華経』書写の記録も看過できず、この点は後の報告を待ちたい。
最後に『醍醐本』所収「禅勝房との問答」の一問答を紹介する。それは阿弥陀仏と浄土三部経以外の余仏余経に結縁することは雑行になるのか、という問いである。それに対して法然は、自身に決定往生の信が起こっている上でなら他善に結縁することは雑行ではなく助業になるのだと答えている。
この「結縁助成」に関する問答からは、善導教学のもと専修念仏を標榜する法然が余仏余経に対して妥協しているとも、寛容であるとも受け止められ、余仏余経に対する法然像に振れ幅が見受けられる。しかしこの問答を、法然が何度も参加した結縁写経の事実を反映したものと捉えれば、教義上の議論だけではない法然の姿が浮かび上がってくる。
文治年間は法然の立教開教から十数年が経過し、専修念仏も人口に膾炙していた。法然の教化が最も充実していた時期にあたる。平家滅亡後、戦時から平時へと移行していく激動の時代の中で、南都復興などの現実問題に対して、法然は積極的に結縁しているといえる。その姿を見ていた門弟たちがこのような問いを法然にしたとしても何ら不思議ではないであろう。