西光寺結縁写経から見る法然と一切経との関係(1/2ページ)
佛教大仏教学部講師 南宏信氏
浄土宗宗祖法然(1133~1212)における一切経(大蔵経)や写経に関する記事は、諸伝記に数カ所確認することができる。①修学期に比叡山西塔黒谷の報恩蔵に籠り一切経を学んだ(『法然上人行状絵図』第四巻第一段)。②文治4(1188)年(56歳)後白河法皇(1127~1192)が白河押小路殿で行った如法経供養の先達を勤める。写経後には十種供養の儀式を行い、横川に奉納している(『同』第九巻)。③その後、元久元(1204)年(72歳)には後白河法皇の十三回忌に六時礼讃と浄土三部経如法経の供養を勤める(『同』第一〇巻第五段)。その次第は『浄土三部経如法経次第』として『黒谷上人語灯録』に収録されている。④晩年の法難による配流を許された法然が帰洛の途中に4年間滞在した勝尾寺で、法服とともに一切経一揃いを施入している(『同』第三六巻第四段)。
しかし年次や内容など、一字一句が全て史実であったかどうかの問題も付きまとう。また法然は専修念仏を標榜し、諸行を選捨する立場を基本とするので、一切経や写経に関連する事柄を積極的に評価することはない。とはいえ全く根拠がない状態から創造されたともいえず、法然と一切経との関係を示唆する出来事として興味深い。そして諸伝記には採録されることはなかったが、実際に法然が関わった結縁写経が現在に伝存する。
一つは大阪一心寺の『摩訶般若波羅蜜多心経・阿弥陀経』である。文治5(1189)年(57歳)の書写である本経には法然の筆による一行と署名が確認できる。文献の性格上、法然の思想を直接うかがい知ることはできないが、分写の結縁者たちの法縁的地縁的関係が指摘されるなど貴重な文献である(青木淳「大阪・坂松山一心寺所蔵一行一筆般若心経・阿弥陀経〈全1巻〉解説」『法然上人研究』3、1992年)。
もう一つは近年、愛知県津島市・西光寺(単立)が蔵する水落地蔵菩薩像から発見された『無量義経』『観普賢菩薩行法経』の一行一筆結縁写経である。前者で「源空」の署名が確認できることを青木淳氏がすでに報告しており、本経は文治年間に書写されたと見られる。
二つの署名から、文治年間に法然が結縁写経に積極的に参加していることが推察される。そうすると法然が参加した結縁写経の底本になった経典はどのようにして調達されたのであろうか。
というのも日本には玄昉(?~746)以来、伝来・書写され続けてきた一切経の系統(日本古写経)の他に、刊本(木版)印刷漢文大蔵経の嚆矢であり奝然(938~1016)によって藤原道長(966~1027)に献上された開宝蔵や他にも高麗版、福州版(東禅寺版・開元寺版)、湖州版(前思渓版・後思渓版)など、法然在世時には様々な大蔵経が開版、伝来している。
法然は『逆修説法』『選択集』で宋の王日休(1105~1173)撰『浄土文』をいち早く受容するなど、宋からの新しい情報を知ることができる環境にあったことがすでに指摘されている。結縁写経の底本となった一切経の系統を探ることは法然周辺のネットワークを探る一助にもなろう。
法然の署名が確認できる西光寺蔵『無量義経』を俎上にし、経文を『大正蔵』(高麗版を底本に宋版〈思渓版〉・元版・明版で校合)と比較した。結論から言うと、高麗版とも宋版とも一致しなかった。そこで日本古写経の系統である京都興聖寺本と比較したところ、ほぼ一致した。結縁写経の底本には、印刷漢文大蔵経ではなく日本古写経の系統を使用していたようである。