中世仏教綱要書と浄土宗西山義(1/2ページ)
親鸞仏教センター嘱託研究員 中村玲太氏
日本仏教が八宗体制という枠組みを構築する中で、法然(1133~1212)が新たに示した「浄土宗」という立場は驚きをもって迎えられた。『興福寺奏状』第一条では、まさに法然が「新宗」を打ち建てたことが批判されている。中世において各宗派の教えをまとめ、そのエッセンスを記した仏教綱要書が著された。その仏教綱要書を著すにあたり、新興の「浄土宗」を如何に記述するかが問題であった。
批判もある「浄土宗」を日本仏教において如何に位置づけるか。この点において、中世の仏教綱要書は「浄土宗」に対して多様なアプローチから記述している。
本論考では、臨済宗東福寺派の大本山東福寺(京都市東山区)開山・円爾(1202~80)の著述と伝わる『十宗要道記』に注目する。同書は仏教綱要書の先駆けとされる。続いて、法然門流の立場ではじめて著された綱要書・存覚(1290~1373)『歩船鈔』がある。以上の仏教綱要書はともに、法然の直弟・證空(1177~1247)を祖とする浄土宗西山義の影響が見える著作なのである。西山義を視野に入れることで浮かび上がる各著作の特徴や思想背景に注目したい。
『十宗要道記』で「浄土宗」を解説する中、善導に則り「口称念仏」を釈迦出世の本懐だとする。そもそも観想念仏でもなく、「口称念仏」を釈迦出世の本懐とすること自体、法然以降の浄土宗の潮流である。こうした出世本懐論に対して、法華こそ出世の本懐ではないのかと問う。同書は、法華・浄土は矛盾するものではなく同じく一乗の教えであり、法華=「所入の一乗」、浄土=「能入の一乗」だとする。
こうした解釈には先行するモデルがあり、それが證空の教説であると筆者は考える。今は詳細な解釈に紙面を割くことができないが、以下の対応関係があることを確認していただきたい。
證空『玄義分自筆鈔』巻一には、「法華ノ一乗ハ所証ノ理ナリ。弘願ノ一乗ハ能証ノ人ナリ」とする。このように證空も、法華/浄土一乗を「所・能」に分けて、法華一乗を覚者に覚られる(=「所」)真理、浄土一乗をそれを覚る(=「能」)人だと論じ、他の法然門下にはない主張を展開する。
さらに『十宗要道記』では、法華一乗は「理平等の法」、浄土一乗は「事平等の法」と分類され、各人の能力差に関係なく(「機教相応して賢愚を簡(えら)ばず」)教えにあずかるのが「事平等の法」である浄土教だと説明する。證空は別の箇所で釈迦の出世本懐について論じる中、「理の一乗」(=諸教)と「事の一乗」(=浄土教)という分類も行っている(『玄義分自筆鈔』巻三)。
こうした分類も證空と『十宗要道記』に共通する特徴である。また、證空は先に挙げた『玄義分自筆鈔』巻一の続きに、「人ハ誓アリ。憑メバ必ズ応ズ。故ニ時ヲエラバズ、濁世ナリトモ証ス」としている。ここでは単に「事」とするわけではないが、「人」である阿弥陀仏には誓願があり、その誓願に帰せば弥陀は応ずるのだとする。覚りの側からこちらに向かってくるのが浄土一乗であると換言することもでき、時を選ばずいかなる悪世でも真理に達するのだとする。論理展開はやや異なるが、以上の證空の結論部分と、『十宗要道記』における「機教相応して賢愚を簡ばず」という結論とは符合する。
先の『十宗要道記』の解釈について、東京大学史料編纂所の菊地大樹は、浄土宗の教義のポイントを天台学との会通にすり替えていると指摘。それにより浄土宗を既存の宗派の枠組みに組み込むことが可能であることを示したとする(「宗派仏教論の展開過程」『日本宗教史6 日本宗教史研究の軌跡』2020年)。