理念なき時代の理念 真人社の歴史的教訓(2/2ページ)
真宗大谷派親鸞仏教センター嘱託研究員 宮部峻氏
当時、教団内部でも有志により「大谷派革新連盟」といった組織が結成されるなど、革新を試みる動きも見られ、改革の機運は高まっていた。しかし、真人社の活動の中心にいた安田理深は、その運動には納得しなかった。
安田の教学は、訓詁学的であった伝統的な宗学・教義学に対して強く批判的であり、仏教を求道的・実存的な思想として読み解こうとするものであった。安田は、「大谷派革新連盟」について、「単なる政治によって宗団を解決しよう」(「教学と教団の問題」『真人』13、49年)とするのみで、信仰、そして信仰を持った仏教者の共同体である「僧伽」の問題が置き去りにされていると批判した。
先般宗門革新連盟の動きがあったが、これは単なる政治によって宗団を解決しようとしたのである。所謂教学は、学者により、教団は政治家によればよい様に思ふ。而しそういう者は宗教団体の上のことで、僧伽の問題ではない。民主主義は僧伽の原理とはならない。経済、政治組織等は、民主主義思想を以てすることは出来る。それは一つの組合だからである。だが僧伽はそんなものでない。法主はやめても、止めなくとも僧伽にはならぬ。宗門革新連盟が如何に民主的理想を書いて努力しても、少しも僧伽にならぬ。ここに教団の無力化した根本的原因がある。(同)
ここでの批判は、教団制度上の「封建遺制」を解決したとしても、それは宗教団体・宗教法人として存在する制度の問題が解決されるに過ぎず、信仰に基づいた実践が確立され得ないということである。
安田は、政治との関わりにより信仰の追求が疎かになることに対して強い警戒心を抱いていた。民主主義、封建遺制批判、マルクス主義といった戦後の思想による批判を経たうえで、教団の封建遺制を克服し、かつ新たな教団を信仰からいかに位置づけるか。真人社にとって信仰と教団の結びつきが重要であった。安田は、マルクス主義への対抗に取り組んでいたカトリックを例にして次のように述べている。
ヨーロッパにマルキシズムが進出したとき、これにカトリックが対立した。カトリックはそれ自身の語の如く教義が教会に結びついているのである。その点プロテスタント陣営は教会がセクト主義である点において弱いのである。……カトリックが堂々とマルクスシズムに対する力のあるのは、教義が教会とむすびついているからに外ならない。……マルクスにとって哲学は社会革命の武器である如く、教義学は教会の実践である。(同)
このように、安田はマルクス主義への対抗を意識しつつ、教義に基づいて教会論を構築しているカトリックを例に、教義に基づいた実践、教団論の構築を目指すべきであると主張した。
真人社は、マルクス主義、封建遺制論による批判によって宗教者の間でも矛盾が認識された既存の教団構造の封建遺制を克服し、さらには、個人の自覚に基づく「信仰」の共同体として新たな教団を構想しようとする運動であった。
同朋会運動の前史・真人社でなされた議論が今日の教団関係者に教えてくれるのは、行政組織としての教団と信仰共同体としての教団とをつなぐ教団論という理念を構想する必要性である。
少子高齢化、過疎化、門徒の寺離れと、寺院・教団の基盤がいよいよ崩壊の危機にある現在において、いかなる教団論が求められているのだろうか。かつて教団の形骸化を批判した封建遺制論やマルクス主義が提示した理念は、すでに効力を失った。もはや、人文科学、社会科学すら危機を批判し、乗り越える理念を提示する効力を失っていると言えるだろう。つまり、現在の教団の危機を乗り越えようとする者は、理念なき時代の理念を紡ぎ出さなければならないのだ。
時代・社会に適応した教団の組織改革を行いつつも、その組織改革の理念を支える教学・教団論を絶えず構想していくためには何が必要か。明確な答えはすぐには出ないだろう。だが、この問いは信仰の課題として取り組まなければならないということを真人社の歴史は教えてくれるのである。この問いに対する答えを与えるのは、人文科学、社会科学の役割ではない。教学の役割なのである。