SDGs導入をめぐる是非―浄土宗のケース(2/2ページ)
浄土宗総合研究所研究員 工藤量導氏
では、社会貢献活動をいかに位置付けるのか。幸い、かつて「社会事業宗」と呼ばれた浄土宗の場合、半世紀以上にわたって社会事業や社会福祉と呼ばれる領域のなかで教義と実践をめぐる議論の積み上げがなされてきた。例えば浄土宗総合研究所編『浄土宗の教えと福祉実践』では、法然の教えに基づき、揺るぎない念仏行の信仰・実践を支柱としながら、できる範囲で社会実践を心がけて行うべきと指摘しており、自身の至らなさを深く見つめて大仰な目標に踊らされることなく利他行・慈悲行をなすべきことが推奨されている。
なお、羅什訳『大智度論』では①仏による無条件にほどこされる大悲(=摂取不捨)、②菩薩による仏法に基づく中悲、③衆生同士が対面してふれあう小悲――という三種の慈悲を説くが、浄土宗の人間観に基づく慈悲の実践は①②よりも、やはり③の「凡夫が凡夫に寄り添う」という姿勢に軸を据えるべきだろう。このように教義的な側面から見ても、「誰一人取り残さない」と「摂取不捨」を安易に結び付けて仏教的な行動指針とすることには注意を要する。
ここまで見てきた通り、いくつかの懸念点はあるものの、それでもSDGsを教団の活動に取り入れることは大きな意義がある。その理由は、SDGsは人間社会が存続するための社会的課題を選りすぐって作られた国際的にも信頼性の高い内容であり、民間企業だけでなく、宗教法人においても有用と考えられるからだ。宗教法人の公益性や社会貢献が問われる現在、今後のあり方を占う上でも重要な指標となる。
また小中高の学習指導要領にも取り入れられて「持続可能な開発のための教育(ESD)」が実施されることから、将来的な檀信徒が寺院や教団を評価する基準となりうる点も見逃せない。
浄土宗の宗規には「本宗の目的は、宗祖法然上人の立教開宗の精神に則り、本宗の教旨をひろめ、儀式を行い、僧侶、檀信徒その他の者を教化育成し、本宗を護持発展させることにより、世界平和と人類の福祉に寄与する」との文言があり、社会の一員として果たすべき使命を掲げる。また教団スローガンとして01年元日から、浄土宗21世紀劈頭宣言「愚者の自覚を/家庭にみ仏の光を/社会に慈しみを/世界に共生を」を世界に向けて発信し、平和、環境、倫理、教育、人権、福祉などの諸問題に取り組むとしている。
この宣言はSDGsの掲げる目標と重なる点が多く、理念を具現化する方法論をSDGsから学ぶところは大きい。加えて、地球規模の気候変動やLGBTQ、ジェンダー平等など近年前景化してきた課題へ新たに取り組む際にも参照が必須である。宣言文にある「家庭」の一語をとってみても、この20年で少子化や同性婚、パートナーシップ制度、選択的夫婦別姓の問題など地殻変動といってもよいほど大きな変化が起こっているため、言葉の鮮度を高めて、内容面をブラッシュアップするのにSDGsの活用は一役を買うだろう。
いまひとつ、SDGsが教団に提起する論点として重要なのは「目標17パートナーシップで目標を達成しよう」である。すなわち教団や宗教の違いを超えて協同の輪を構築してゆく際の共通目標になることが期待される。
教団が新規事業に取り組む際、往々にしていかに他団体よりも先行し独創性を顕示するかという点に主眼を置く傾向がある。しかし、SDGsの視点から見れば、独り勝ちよりも多様な団体や個人とのパートナーシップを結んで足並みをそろえることで生まれる目標達成への貢献度に重心がある。つまり、教団が存在を置く地球規模の未来に向けて示された具体的なアクションと結果こそを求めるのだ。
これは従来の宗教界に足りていなかった視点でもある。前述した教義解釈や教団スローガンのように各教団のカラーに準じた社会実践の位置付けがあるものの、宗義とは基本的に自宗の優位性を説くものなので、どうしても他教団に対して排他的な側面があることは否めない。これについては、例えば「慈悲」の理念を共通基盤とすれば、他宗派はもとより他宗教においても類似概念が説かれているため各教団の特色を活かしつつ、ゆるやかな連帯を結ぶことも可能であろう。浄土宗の場合は大乗仏教の精神(円頓戒の摂衆生戒など)と愚者の自覚という教義を踏まえた「凡夫の慈悲実践」というイメージで参画することができる。
以上、SDGsは多様な側面を持ち、教団にとって長所短所の両面が併存するが、それでも総合的に見れば導入のメリットが上回ると考える。たとえ仏教的理念とSDGsの目指す所(Goals)が完全に一致していなかったとしても、それぞれの達成プロセスのなかで連帯可能な場面は多い。適切な距離感をもって導入することで、教団が持つ社会的意義を現代的にアップデートするためのカンフル剤となることを期待したい。