SDGs導入をめぐる是非―浄土宗のケース(1/2ページ)
浄土宗総合研究所研究員 工藤量導氏
SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)の言葉が世に浸透しはじめて久しい。主要な教団はすでにSDGsを前面に掲げて活動に取り組んでいる。そのような状況下で、浄土宗がSDGsにどのようなスタンスで臨むべきかを検討すべく、浄土宗総合研究所において「包括宗教法人におけるSDGsの取り組みのあり方」研究班が発足した(企画調整室による委託研究)。以下、研究班の代表者として当班で議論された主要な論点を取りまとめて記してゆく。
周知の通りSDGsとは、2015年の国連サミットで採択された「誰一人取り残さない」持続可能で多様性と包摂性のある社会の実現のため、30年を年限とする17の国際目標である。特にSDGsの旗印ともされる「誰一人取り残さない」は多様な宗教的理念とも馴染みがよく、実際このフレーズを媒介にして各教団の事業がSDGsの文脈に結び付けられている。浄土宗の場合でも、あらゆる衆生を見捨てることなく救い取るという「摂取不捨」の教えを想起する方も多いだろう。
研究班で議論の争点となったのが実はこのフレーズの解釈をめぐるものだった。第一にSDGsの基本スタンスへの疑問である。SDGsの前文には「我々は人類を貧困の恐怖及び欠乏の専制から解き放ち、地球を癒やし安全にすることを決意している。我々は世界を持続的かつ強靭(レジリエント)な道筋に移行させるために緊急に必要な、大胆かつ変革的な手段をとることに決意している。我々はこの共同の旅路に乗り出すにあたり、誰一人取り残さないことを誓う」とあり、貧困格差の撲滅や環境問題の解決が誓われている。
ただし、その実現方法は「変革的な手段」すなわち経済的イノベーションによる社会構造の転換を通じて達成しようというものであり、あくまで経済成長、富の増大を主体とするものだ。換言すれば、経済活動から誰一人取り残さないという指針であろう。事実、SDGsに最初に飛びついたのは企業や金融システム(ESG投資、SDGs銘柄など)であり、新たなビジネスの機会を創出する点からBDGsとも言われる所以である。
さらに「持続可能」という言葉は、必ずしも消費の抑制を目的とせず、可能な範囲内で技術革新やエネルギー開発、雇用確保を行って豊かさを実現しようというもので、欲望の肥大化に警鐘を鳴らす「少欲知足」の教えとそぐわない面がある。宗教的な救いと社会的な救いが同位相で語れないのは当然のことだが、SDGsの場合は社会的課題の解決がやや従属的・副次的な位置付けになっていることも懸念される点である。
このようにSDGsが消費活動や経済活動を肯定するための免罪符となっていることも否定できない。一見すると宗教的な文脈と親和性が高いように見える「誰一人取り残さない」の文言も、実態としては仏法の指針とない交ぜにできない側面があるのだ。
第二に「摂取不捨」という教団特有の教義理念との関係である。浄土宗は本尊阿弥陀仏があらゆる衆生を取り残すことなく念仏往生させるという摂取不捨の教えを標榜する。この教えとSDGsの「誰一人取り残さない」の構造的な近似性が謳われるわけだが、教義の上で救い取る主体者はあくまで阿弥陀仏であり、衆生の側ではないことに留意したい。つまり宗教的な救いの完遂は阿弥陀仏の「大慈悲」でしか叶えられないというのが大原則であり、私たち凡夫が摂取不捨を実現できるわけではない。
また法然の思想には仏教を聖道門(自力の諸行)と浄土門(他力の念仏行)に分別して、浄土門の教えを選び取るという枠組みがある。聖道門の実践はSDGsの社会貢献活動と理念的な相性がよく、浄土系以外の宗派では大乗菩薩の利他行・慈悲行との親和性が強調される傾向にある。一方、浄土門の立場では難行性の面から凡夫が聖道門的な実践をなすことに抑制的であり、ここに凡夫による社会実践の是非というジレンマが生じる。