仏教と人工知能の倫理(2/2ページ)
花園大教授 師茂樹氏
チュラロンコン大学の哲学者、Soraj Hongladaromのように、企業によるビッグデータの収集や、人々の行動を予測するアルゴリズムに仏教倫理を導入することを主張する者もいる(The Ethics of AI and Robotics: A Buddhist Viewpoint. Lexington Books)。Hongladaromは、監視社会に対する従来の批判が、西洋の「個人」概念に基づくプライバシー観念に依拠している点を批判し、無我や縁起に基づく仏教的なプライバシーを提示する。そして、「感覚を持つ存在」である衆生(有情)は、不幸を遠ざけ幸福を求める存在であり、その点からプライバシーは擁護されるべきである、と主張する。
個人の行動履歴の収集や、それを分析するアルゴリズムは、衆生の苦しみを和らげたいという願いと、すべてのものが相互につながっているという理解を備えた「悟りにもとづくアルゴリズム」もしくは「慈悲のあるアルゴリズム」でなければならない、という。「監視資本主義」的なあり方を部分的に肯定するHongladaromの議論に対して異論がないわけではないし、「慈悲のあるアルゴリズム」が具体的にどのようなものかについてもHongladaromの記述からはわからない。そういった残念な点はあるものの、仏教の智慧によって社会システムの方を変えていこうという姿勢には、我々が考えるべきことが多く含まれるようにも思われる。
自律システムや知能システム(概ねロボットや人工知能に相当)の開発・販売をめぐる倫理的指針を検討しているIEEE(米国電気電子学会)では、「倫理的に配慮されたデザイン(Ethically Aligned Design)」という文書を制定している。電気通信や情報工学におけるIEEEの影響力は大きく、その内容が注目されるが、興味深いことにそのなかには古典倫理学や非西洋圏の倫理的伝統などについて記述する章があり、仏教の倫理観についても参照されている(Hongladaromの論文も引用されている)。グローバル経済のなかでロボットなどを販売するためには、宗教も含めた各地域の文化・伝統をふまえる必要があるため、こういった配慮がなされているのである。
しかし、残念ながら、そこでの仏教に関する記述は乏しいと言わざるを得ない。仏教の分厚い教理的伝統や、地域的・時代的な多様性などが反映されているわけではないのである。仏教(学)者がこういった指針の策定に参加することで、今後開発される人工知能やロボットを、現在よりは幾分ましな、仏教的倫理観に配慮したものにすることもできるのではないか。筆者は仏教学者として、こういった議論に参加せねばならないという気持ちを持ち続けているが、なかなか時間をとることができず、忸怩たる思いを重ねている。
筆者が仏教と人工知能の問題を研究し始めたのは2017年頃からである。特に、人工知能やビッグデータが普及している現代社会において、仏教的に正しくふるまうにはどうしたらよいのか、という倫理的問題を、細々ではあるが考えてきた。幸い、筑波大学の木村武史教授を中心とした宗教学者の共同研究グループに参加させてもらうことができ、18年から毎年、日本宗教学会でパネルを開催して研究をすすめることができている(本稿の前半は今年度のパネルで発表した内容である)。しかし、他の仏教学者から、仲間にいれてくれ、というような声を聞くことはなく、いささか残念に思っている。
仏教学は文献学を基盤とした精緻で実証的な研究が中心であり、仏教教理に基づいて現代の問題について考えるような研究は盛んではない。文献学は、仏教という巨大な研究対象を扱うための一つの方法にすぎないはずだが、それ以外は研究ではない、といった雰囲気も感じられる。しかし、1990年に東北大学で開催された日本印度学仏教学会・第41回学術大会では、シンポジウム「脳死・臓器移植問題および生命倫理」が開催され、仏教から見た脳死や臓器移植の問題について活発な議論が行われたという(筆者が大学に入る前なので、直接に見聞したことではないが)。そういう過去を知るにつけ、どうして現代の仏教学においてはこういった議論がなされないのだろうか、と(自身の力不足を棚に上げて)残念に思う。
仏教が蓄積してきた叡智は、情報技術によって欲望と偏見と無慈悲を更新し続ける、この現代のインターネット社会においてこそ、活かされるのではないかと考えている。そういったことについて(それ以外のことでも)議論ができる仲間が増えないかと考えている。