仏教と人工知能の倫理(1/2ページ)
花園大教授 師茂樹氏
スマートフォンを常時携帯し、キャッシュレス決済が当たり前となってきた昨今、その利便性と引き換えに、個人の行動記録が個人情報とともに収集され、分析され、売買される「監視資本主義」も拡大しつつある。この概念を提案したショシャナ・ズボフは、「監視資本主義」を「人間の経験を、密かな抽出・予測・販売からなる商業的慣行のための無料の原材料として要求する、新たな経済秩序」と定義する(野中香方子訳『監視資本主義 人類の未来を賭けた闘い』東洋経済新報社)。
中国では、こういった人々の「経験」を政府が収集し、全国民をランク付けするシステムも構築されつつあるという。ランク付けが社会サービスと連動しているため、人々は自身のランクを上げるために政府にとって望ましい行動を自発的に取ろうとする、という新たな統治のシステムである。
SNSにおいては、以前から、ユーザーがどのような記事をクリックしたかを記録し、それにもとづいてユーザー個々の好みを予測、それに応じたコンテンツを優先して表示することが行われている。これによって、自分の周りには自分と同じ考え、同じ好みの人しかいないように錯覚してしまう「友好的世界症候群」にとらわれ(イーライ・パリサー『フィルターバブル インターネットが隠していること』早川書房)、また同じような意見を繰り返し閲覧し続けることで、自身の信念を強化してしまう「エコーチェンバー現象」に陥っているユーザーも増えているという。
自身の考えの正しさに疑いを持たず、違う考えを持つ者に対して「ネトウヨ」「パヨク」と罵りながら、人々が分断を深めていくSNSは、まさにこういった現象の表れである。このような仕組みを用いれば、管理者側が、ユーザーの目にする情報を意図的に操作することによって、特定の主義主張などへ誘導することも可能である。
宗教が社会的存在であるならば、「こういった社会において、仏教はどのような役割を果たすことができるだろうか」と問いを立てることも求められてくるのではないかと思う。現在、いくつかの提案がなされているが、佐々木閑の「ネットカルマ」をめぐる議論はその一例であろう。
佐々木は、スマートフォンやIOT(モノのインターネット)、顔認識システムなどによって人々の行動が記録され、インターネット上に蓄積され、やがてそれが自分に何らかの形で返ってくる、という「極度の監視社会」のなかに、仏教のカルマのシステムとの共通性を見出して、それを「ネットカルマ」とよぶ。そして、それに「対抗」するために「ネットの価値観から離れ」「自己鍛錬に人生の生きがいを見出す」方法を説く(『ネットカルマ 邪悪なバーチャル世界からの脱出』角川新書)。
このような佐々木の議論は、仏教の本質に基づいた傾聴すべきものであると思う。ただ、本書の後半に「自分を救えるのは自分自身である」という『ダンマパダ』の言葉が引かれるように、その方法はあくまで自分自身を変えることが主となっており、「極度の監視社会」の方を変えようというものではない。そこにある種の物足りなさを感じてしまうのは、筆者だけであろうか。