院家 ― 仁和寺と共に生きた寺院(2/2ページ)
総本山仁和寺学芸員 朝川美幸氏
法親王の院家以外から仁和寺住職が選ばれるのは、慶応3年12月に第三十世純仁法親王が還俗し仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)となられたこと、以降皇室から法親王を迎えることができなくなったことで、第三十一世に皆明寺の冷泉照道が選出、初めて院家から仁和寺住職が誕生しました。しかし法親王の還俗がなければ、院家はあくまでも支える役に徹していたように思います。
次に、仁和寺と院家において移動された三十帖冊子について述べてみたいと思います。現在仁和寺では、空海が唐から請来した三十帖冊子を所蔵しています。『高野春秋編年輯録』巻七には、文治2(1186)年10月5日に、第六世守覚法親王によって東寺の経蔵から仁和寺大聖院の経蔵に移されたことが記されていますが(『東宝記』第六では大教院としていますが、永保3(1083)年に建立された大教院は、永久2(1114)年に焼失。再建後、保延5(1139)年再度焼失。その後、敷地は大教院・遮那院・金剛幢院の三院に分かれます。後に大教院の場所に守覚法親王が念誦堂を建立しますが、経蔵の建立の記録は見えないので、大教院に納められた可能性は低いと考えています)、移された後、冊子を解説する書籍の多くは「その後も仁和寺が所蔵する」といった一文で語られることが多いように思いますが、実際にはそんなに簡単ではありませんでした。
大聖院は『仁和寺諸堂記』によると「紫金臺寺御室御建立、當時御所也」とあり、第五世覚性法親王の寺院で御所でもあったことが記されています。よって守覚法親王は自身の院家でも仁和寺でもない、先代の御所の経蔵に三十帖冊子を納めました。しかし大聖院は永和4(1378)年12月12日に焼失し、再建には至らず廃寺となります。大聖院の焼失後、本坊の機能は常瑜伽院に移されたようで、冊子も一緒に移された可能性があります。しかし常瑜伽院も応仁・文明の乱で焼失するので、冊子はさらに真光院に移ったと考えられますが、仮に永和4年の段階で大聖院から仁和寺に移動しても、仁和寺も応仁2年に焼失するので、どちらで保持していても最終的に焼失を免れた真光院に移されたと考えられます。文禄2(1593)年6月に真光院禅海と恵命院亮淳が作成した『師子筺(新造)目録』に、「三十帖冊子全部一合」と記されていることから、真光院内で保管されていたことが明らかになります。さらに寛永8(1631)年に作成された『(真光院)御霊宝目録』にも冊子は記載されています。正保4(1647)年の仁和寺再興後、境内に御経蔵が完成すると、三十帖冊子を含めた聖教類は仁和寺に移され、ようやく解説書の内容通りになるのです。よって大聖院に納められ仁和寺で所蔵された、という簡単な話ではなく、院家間での移動により災害を逃れた上で、現在まで大切に伝えられてきたことがわかるのではないでしょうか。なお、冊子を開く際には、開封目的や立会人が必要であったことからも、寺内でも厳重に取り扱われていたようです。
また、仁和寺には二つの蔵「御経蔵」「塔中蔵」があり、それぞれに聖教が納められていました。現在は全て仁和寺所蔵となっていますが、旧院家の聖教も多く含まれています。特に塔中蔵聖教は、蔵書印や奥書から、院家で所蔵されていたものが大部分を占めており、そこには、院家同士での貸し借りだけでなく高山寺や石山寺などで書写されたものもあり、当時の僧侶たちの積極的な書写活動や交流関係を知ることができます。
さらに旧院家聖教の中でも、心蓮院聖教は国の重要文化財指定を受けているものが多く、現在では貴重とされる聖教類も多数残されています。よって仁和寺は、各院家が積み重ねてきた聖教がさらに集められた聖教の宝庫となっているようにも思います。今後、院家寺院の所蔵目録を作成することで、院家聖教の復原などにもつながるのではないかと思います。このように仁和寺と院家について、今後も研究する必要性を感じています。