院家 ― 仁和寺と共に生きた寺院(1/2ページ)
総本山仁和寺学芸員 朝川美幸氏
真言宗御室派の総本山である仁和寺(京都市右京区)は、真言宗広沢方の法流を伝える寺院でもあります。また仁和寺は、仁和4(888)年の創建から現在まで
一、平安時代―光孝天皇の発願と宇多天皇の造営
二、平安時代後期から鎌倉時代―寺院の繁栄
三、室町時代―応仁の乱による衰退
四、江戸時代―伽藍再興と現在
のように四分割することで説明ができますが、仁和寺の歴史を語るとき、寺周辺にはかつて院家と呼ばれる寺院集団があり、仁和寺を支えてきたこと、院家が所蔵していた聖教類などが現在仁和寺の所蔵となっていることなどはあまり知られていないように思います。よって仁和寺とともに歩んできた院家について、寺院の性格や役割、経典の移動などについて述べてみたいと思います。
院家の成立については、杉山信三氏や古藤真平氏が室町時代と江戸時代に記された『仁和寺諸院家記』『仁和寺諸堂記』を詳細に分析し、紹介しています。それによれば、仁和寺創建後、寺内には円堂院や観音院など、周辺にも寺院が造営されます。それが四円寺と呼ばれる天皇の御願寺、円融天皇の円融寺、一条天皇の円教寺、後朱雀天皇の円乗寺、後三条天皇の円宗寺です。そして仁和寺歴代住職(法親王・門跡・御室などとも呼ばれる)が自身の御所としても使用した喜多(北)院、成就院、大聖院など、内親王や女院の大教院、法金剛院、そして覚瑜など僧侶によって真光院などが造営されました。ちなみに興教大師覚鑁は成就院、『性霊集』に『続遍照発揮性霊集補闕鈔』を加えた済暹は慈尊院に入寺しており、吉田兼好は『徒然草』に真乗院の盛親や華蔵院の弘融、弘舜といった院家僧を登場させています。『仁和寺諸院家記』には、90を超える院家が記されています。
院家は仁和寺の繁栄と共に造営されますが、廃寺となる寺院も多く、特に応仁・文明の乱(1467~77)による火災で仁和寺も金堂をはじめ境内全域を焼失(応仁2年9月)、同様に周辺の院家も焼失したことで廃寺が進みました。この頃は法親王の御所として新規造営された記載も見られないので、すでに一部の院家しか残っていなかったのではないでしょうか。
堂宇を失った仁和寺は、乱の影響を受けなかった真光院に本尊や聖教などを移し、再建の機会を待ちます。この機会は約170年後に訪れ、正保3(1646)年に元の場所に移動、翌年開眼供養が行われました。その後、真光院をはじめ真乗院、心蓮院など約10院家が仁和寺境内や隣接地に移動し、仁和寺を支える役目を果たしました。創建時はそれぞれの目的を持った寺院でしたが、再建後は法親王のもとで坊官らと共に宗教活動や寺院運営などを行っていたことが、坊官の記録『御室御記』に記されています。
中でも真光院は中心を担っていたようで、仁和寺歴代の蔵「御経蔵」に納められていた聖教の目録作成、確認、定期的な虫干しなども行っていました。しかし明治初年の神仏分離令により院家の多くは廃寺となり、明治16(1883)年の『明治寺院明細帳』によれば、11寺院のうち、尊寿院だけが残りましたが、すでに仁和寺を支える院家としての役割は終えていたようです。現在は仁和寺住職(門跡)が尊寿院住職を兼ねています。
さて、仁和寺の歴代住職は宇多法皇をはじめとし、慶応3(1867)年まで30名を数えますが、第十世法助以外、皇室から迎えられています。よって法親王の院家以外の住職は、仁和寺の住職になることはありませんでした。あくまでも皇室から入る法親王(入道親王)を待ち、不在の時期があった場合は、住職の席は空けたまま、院家の僧侶たちが法流を守り、次の法親王に伝えることも役目の一つであったように思います。『仁和寺御伝』を見るとこの流れがよくわかります。