最澄の悲願 ―大乗戒独立をめぐって―(2/2ページ)
上田女子短期大非常勤講師 栁澤正志氏
大乗戒独立に関しては、勅許の日付けが議論の対象となっていた。天台宗では古来、『大師伝』の「六月十一日、允許…」という記述により6月11日に勅許が降ったとしてきた。宗のHPでも「弘仁13年(822)6月4日に最澄は遷化され、その7日後、比叡山独自に大乗菩薩戒を授けることの勅許が下された」とある。しかし、平成24年に始まる天台宗祖師先徳鑽仰大法会HPの伝教大師のページには、大乗戒勅許が6月3日に降ったと伝えられる、とする旨が記されている。こうした変化は近年の学界における議論を反映してのことと推測する。
この問題を最初に指摘したのは歴史学者の三浦周行氏である。三浦氏は大乗戒認可の官符について「六月十一日(日本紀略、日本逸史六月壬戌、即ち三日に作る)允許の官符を寺家に下さる」(延暦寺御遠忌事務局編『伝教大師伝』、1921)と、大乗戒認可の官符が出された日に6月11日説と6月3日説があることを指摘した。この指摘に詳細な検証を加えたのが佐伯有清氏である。佐伯氏の著『伝教大師伝の研究』(吉川弘文館、92)、『最澄と空海』(吉川弘文館、98)では国史関係の資料を検証し、特に『類聚国史』弘仁13年6月壬戌(3日)条に基づき、6月3日に嵯峨天皇より勅許が降りたこと、ならびに『大師伝』のいう11日は官符のことを指すことを論証した。
佐伯説で重要なのは、勅許と太政官符に時差があることを指摘した点である。従来説では勅許と太政官符の区別が曖昧なまま論じられていた。佐伯氏は勅許と太政官符の発行には通常1カ月から4カ月の時差があることを指摘し、大乗戒勅許が6月3日、太政官符が6月11日という早さで発せられたのは最澄の遷化を受けた特別な対応とした。張堂興昭氏は、この観点から改めて『一心戒文』を読解し、光定が明確に勅許と太政官符を区別していることを「弘仁十三年六月三日の大戒勅許をめぐって―佐伯有清説を前提に―」(『天台学報』60、2018・10)で論じ、また、近年刊行された皇室の公式文書である『嵯峨天皇実録』より6月3日勅許の証拠を検出して佐伯説を補強した。佐伯説や張堂氏の補説は原典の正確な読解の重要性を改めて示したものである。今年の6月に発刊された大久保良峻氏の『伝教大師 最澄』(法藏館、21)では、この議論の端緒である三浦氏へ言及し、最近の研究(言外に佐伯説と張堂氏の補説を指す)により、大乗戒勅許が6月3日、太政官符が6月11日に発せられたことが明らかになったと論じている。
この議論は思わぬ影響を与えている。最澄の死は、悲願であった大乗戒公認が没後7日ということもあり、悲しみが強調されて語られがちであった。しかし、勅許が死の前日ということが明確になると、最澄は喜びのなかに遷化したという表現が見られるようになった。過去には南北朝編纂の『帝王編年記』弘仁13年壬寅6月(6月3日)条には「藤原朝臣家宗〈真夏卿孫。浜雄一男〉戒壇を立つべしとの由、宣旨を帯びて山に登る。伝教大師、悦喜に耐えず」と、最澄が勅許を聞き喜びに耐えなかったとある。直近では、最澄と空海を描いたおかざき真里氏の漫画『阿・吽』(小学館)で、最澄が喜びのなか遷化する描写が見られた。そうであったことは否定しえないし、そうあって欲しいとも思うが、これは一考を要するであろう。
まず、臨終の床にあった最澄が勅許の報を認識できたかが定かではない。もし、勅許の報に触れ何かしらの反応があれば『大師伝』や『一心戒文』に記されたはずである。また、勅許と太政官符の性質の違いがある。勅許のみでは制度として不十分なのであり、大乗戒受戒制度を公式のものとするには太政官符を待たねばならない。最澄が求めたのは「制度としての大乗戒受戒」である。組織として重要なのは官符の方である。これは弟子も当然ながら認識していた。大乗戒公認後、最初の受戒の戒師は初代座主義真であったが、弟子たちは皆、それは最澄であるべきだったと思っていたことは容易に察せられる。師の志をその生前に完遂できなかったという悔恨、遷化の悲しみ、あるいは勅許や官符を受けたことによる安堵など、弟子たちの感情は複雑に交錯していたであろう。そうしたなか、最澄への思慕の念が悲しみを強調させたものと尊重すべきと拝察する。
しかしながら、最澄の悲願、大乗戒公認までの経緯が大遠忌を迎えるに際し明らかになったことは望外の喜びである。そこには人材育成こそが次代を創るという最澄の強い確信が込められている。この理念は現代にも大いに通ずる卓見である。社会繁栄の基盤、人間の本質を伝教大師最澄は遙か1200年も前に見つめていたのである。