最澄の悲願 ―大乗戒独立をめぐって―(1/2ページ)
上田女子短期大非常勤講師 栁澤正志氏
本年は伝教大師最澄没後1200年の大遠忌にあたり、比叡山延暦寺では「戒壇院・法華総持院」の特別拝観を行っている。今回公開される戒壇院とは正式な出家僧となるための受戒儀礼を行う特別な場所であり、ここは宗祖最澄の並々ならぬ思いが込められた場でもある。
日本仏教と他国の仏教との大きな相違点に受戒制度がある。日本の天台宗は大乗戒をもって正規の受戒儀礼とするが、これを認めるのは日本仏教の特色の一つである。その原点に位置するのが最澄である。
最澄は天台宗の根本思想である法華一乗思想に則り、誰もが仏となれることを説き、国家安寧のために人々を導く菩薩僧の養成に尽力した。最澄はこの菩薩僧こそが国宝であると述べる。
しかし、開宗間もない天台宗は弟子の育成に困難を抱えていた。原因の一つが受戒制度にあった。当時、国家公認の僧侶となるためには受戒が必須であった。最澄自身も東大寺で受戒した後、天台宗を開き、年分度者(官許の出家僧)として1年に2人を朝廷より認可され、弟子を東大寺で受戒させていた。しかし、その年分度者の約半数以上が法相宗への改宗や帰郷などで比叡山を離れてしまっていた。
この弟子の流出を避けるべく構想されたのが大乗戒独立であった。これは通常授ける具足戒を大乗戒に変更することを主張したものである。最澄は入唐中に菩薩戒(大乗戒)を受けているのであり、また、中国の実情を踏まえながら、大乗戒受戒を正式な制度として朝廷に認可するよう求めたのである。
しかし、この主張は仏教史上極めて異例のものであった。まず、出家僧に授ける戒は具足戒(男僧は250戒、尼僧は348戒)と規定されているのであり、大乗戒のみで出家僧とすることは日本では前例のないことであった。また、受戒儀礼を行う場所にも議論の余地があった。最澄在世において受戒儀礼を行うことができたのは国家公認の三戒壇だけであった。南都の影響を排除するために東大寺での受戒を否定することは、比叡山での受戒儀礼の執行を求めることと同義である。つまり、出家制度そのものを大きく変革する内容を最澄は主張していたのである。
この活動は一般に大乗戒独立運動などと称されるが、その内容ゆえ、南都からの激しい反発を招いた。最澄の主張と南都からの反駁については『山家学生式』『顯戒論』に残され、その対立の模様が見て取れる。また、大乗戒勅許までの過程については『叡山大師伝』(以下『大師伝』)、『伝述一心戒文』(以下『一心戒文』)といった直弟子による記録、また、『類聚国史』など歴史資料より辿ることができる。
最澄が臨終の床にあってなお大乗戒独立を念願していたことは、高弟光定の『一心戒文』に確認できる。光定は、「師の云わく、我がために仏を作すことなかれ。我がために経を写すことなかれ。我が志を述べよ」と、自分のための供養をするより、自身の志である大乗戒公認を一日も早く得られるよう努めろ、と最澄の命があったと記している。この言を受けた光定は藤原常永に最澄の言葉を託し嵯峨天皇に再度の働きかけをし、その結果「大皇、勅許す」と天皇の勅を得たと述懐している。この文脈から最澄最晩年の悲願が大乗戒の独立、大乗戒公認にあったことが理解できる。