大谷派の法衣装束調査(1/2ページ)
千總文化研究所所長 加藤結理子氏
千總文化研究所は、株式会社千總(京都市中京区)が「御装束師千切屋惣左衛門」として法衣商を営んでいた歴史から、真宗大谷派の寺院を中心に袈裟や道服などの法衣や打敷をはじめ御堂を荘厳する染織品の調査研究を進めている。
千總の創始者は、室町時代弘治年間(1555~58)に法衣商として京都で商いを始めたとされ、千總には東本願寺の御用であることを記した鑑札や、装束の見本裂や雛形、図案などが多く収蔵されている。現在は、友禅染、絞りや刺繍を施した呉服を中心に手がけていることもあり、法衣商であった当時の商いの様子や実際にどのような法衣を制作し納めていたのかは、これまでほとんど明らかでなかった。
近年、兵庫県姫路市の大谷派寺院・姫路船場別院本徳寺(以下、本徳寺)と大谷派門首の一族の元に「御装束師千切屋惣左衛門」による法衣装束が伝わっていることが確認された。
千總文化研究所は、中世日本研究所と京都府京都文化博物館と共同し、2019年度は本徳寺所蔵の染織品約100点、20年度は前年度に引き続き本徳寺所蔵の装束約50点および大谷家所蔵の装束類約40点の調査を行った。
本稿は、2年間の調査内容についてご紹介するものである。
調査では、七條袈裟、横被、修多羅、袍裳、鈍色、五條袈裟、素絹、附裳、道服、小道服、前五條袈裟、畳袈裟、輪袈裟、咒字袈裟、表袴、指貫、差袴、袴、半尻、小五條袈裟などの法衣装束が確認された。
本徳寺は連枝が住職となる特異な別院であることから、非常に華やかな七條袈裟と横被や素絹(附裳)など、連枝住職が着用する特殊な法衣が多く遺されている。また、東本願寺の歴代は近衛家の猶子であり、江戸時代の門首の夫人は有栖川宮や伏見宮、鷹司家といった宮家や摂家から迎えていたため公家文化が浸透した。そのため法衣の文様には有職文様が多く、小道服や半尻など公家の装束も確認された。
法衣装束の年代は、江戸時代後期から昭和時代初期までであった。最も年代が遡るものとして、安永2(1773)年製の七條袈裟と横被が確認された。注目すべきは、法衣装束の多彩な色と文様、そしてそれらを構成する織の技術である。日本の近世から近代にかけての染織技術が、大谷派の寺院が持つ文化の元で豊かに育まれていたことを示唆している。
文様を見ていくと、東本願寺の八藤紋と近衛家ゆかりの抱牡丹紋がとりわけバリエーションが豊富で、それらは単独で用いられるだけでなく「雲襷」「小葵」「立涌」「唐草」といった文様と組み合わされ、八藤紋は30もの種類があった。抱牡丹紋は近衛家より譲られたもので、東本願寺門首の親族である連枝は細部が異なる個人の御自紋を持つため、法衣の抱牡丹紋も多種多様である。
他にも、角ばった形の「筥牡丹」、牡丹の花を囲む蕾のついた枝が鋏を連想させる「蟹牡丹」、牡丹の花びらを雲に見立てた「雲牡丹」などの牡丹紋が見られた。
さらに、「桐鳳凰」「尾長鳥」「窠霰」「蜀江」などの有職文様から、ペーズリー柄を彷彿とさせるエキゾチックなものまで、様々な文様が確認された。
調査では、デジタルカメラに搭載された顕微鏡機能を用いて、こうした種々の文様がどのような織技術によって表現されているのかを拡大画像によって記録した。法衣装束の地の織組織は主に繻子、綾、平織、顕紋紗などであった。
「沈織」や「浮織」などがあり、金糸も平らな平金糸と丸みのある縒金糸の使い分けが見られた。一方、無地の平織の中には、赤と青、緑と紅といった具合に経糸と緯糸に別色を用いて、角度によって異なる色に見えるような複雑な色を表現した法衣装束も確認された。