信仰でつながる身延山と佐渡(2/2ページ)
新潟県立歴史博物館専門研究員 前嶋敏氏
日蓮在世時から、身延山と佐渡は信仰によってつながっており、また往来があったことがわかる。
二つ目として、江戸時代の事例から考えてみたい。
佐渡市・本行寺には、1824(文政7)年、本行寺檀徒で佐渡松ヶ崎住人菊池与右衛門の妻である「くら」という女性が身延参詣を行った時の御首題帳が伝わる。御首題帳は、信徒の霊場巡りにおいて、各寺院で御首題や御朱印を受け取り、それを帳面に仕立てて信仰の証とするものであり、そこにみられる御首題から、信徒の霊場巡りの様子をうかがうことができる。
そこでこの御首題帳をみると、くらは雑司ヶ谷法明寺(東京都豊島区)、池上本門寺(大田区)などを巡り、また甲斐では休息山立正寺(山梨県甲州市)、鵜飼山遠妙寺(笛吹市)、徳栄山妙法寺(富士川町)、妙石山懸腰寺(同)、身延山久遠寺(身延町)、七面山敬慎院(同)、西谷法雲坊(同)を訪れていることがわかる(望月真澄・身延山大教授「日蓮伝説と霊場の形成―佐渡・越後・甲斐―」前掲図録所収参照)。
さて、ここにみられる甲斐の寺院は、たとえば1852(嘉永5)年に刊行された『法華諸国霊場記』といった、法華霊場の案内書などにも記載されている。法華霊場の案内書とは、特に江戸時代後期ころ、法華霊場を巡る信徒が増えたことを受けて作成されるようになった、各地の法華霊場などを紹介する書物である。この記録から、くらの参った寺院が、霊場巡りにおける重要な巡拝先として知られていたことがうかがわれる。くらは事前にこうした情報を得て身延参詣を行い、信仰を深めていったのであろう。
日蓮の没後も宗団は広く展開し、また日蓮の事績は伝記や随筆や浮世絵の題材にもとりあげられて語り継がれた。そして、佐渡や身延山は日蓮の足跡が色濃く伝えられる霊場として全国に広く知られていった。江戸時代には、佐渡・甲斐を訪れる旅行者も数多く見られ、佐渡と身延山をつなぐ交通は、日蓮没後にも、その足跡を踏まえてさらに展開した。なおこれらの書物においても、佐渡と身延山は、日蓮ゆかりの霊場、また多くの人々が訪れる重要な巡拝先として記載される。日蓮の足跡を訪れる信仰の旅が行われるなかで、佐渡の人々も身延山を目指して旅をしていた。江戸時代の信仰の旅の視点からも、信仰を通じて佐渡が身延山とつながっていたことをうかがうことができる。
このような地域のつながりを踏まえて、日蓮の信仰の広がりについて、より理解を深めていく必要があるように思う。
なお本年は、日蓮生誕800年、佐渡入国750年という節目の年にあたる。そこで新潟県立歴史博物館・山梨県立博物館では、特に日蓮にゆかりの深い新潟県、山梨県において、あらためてその生涯を振り返り、また現在まで伝えられた法華経の信仰とその文化を展覧会として紹介することとした。
また日蓮の足跡のみならず、その教えを受け止めた人々や、その足跡の残る佐渡や越後、甲斐のつながりにも留意し、ここにとりあげた事例も含めて、信徒による信仰の旅をうかがわせる歴史資料も紹介している。この機会に足をお運びいただきたい。
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「日蓮聖人と法華文化」展
新潟県立歴史博物館:7月17日~8月29日 山梨県立博物館:10月2日~11月23日