信仰でつながる身延山と佐渡(1/2ページ)
新潟県立歴史博物館専門研究員 前嶋敏氏
日蓮は、1271(文永8)年から約2年半を佐渡国(新潟県佐渡市)で過ごし、また1274(文永11)年に赦免されてから入滅するまでの約9年を甲斐国身延山(山梨県身延町)で過ごした。佐渡では流人としての苦難のなか、『開目抄』『観心本尊抄』などの重要書を著した。また身延山では門弟の教導を行いつつ、『撰時抄』『報恩抄』などを著した。佐渡および身延山は日蓮の生涯にとってきわめて重要な地であった。また佐渡や甲斐などでは、日蓮の没後もその教えが弟子や地域の人々に受け止められ、展開していった。地域の側も日蓮の影響を大きく受けていた。
さて、身延山久遠寺の三門と本堂を結ぶ287段の石段「菩提梯」は、1632(寛永9)年に佐渡の仁蔵という人物が発願・造営したものとされ、その造立にまつわる伝承もいくつか残っている。佐渡の人々は、弟子や信徒たちの信仰によって身延山と直接的につながっていた。このつながりは、日蓮在世時から続くものであり、それをうかがわせることがらの一つとして、信徒たちの信仰の旅がある。
中尾堯・立正大名誉教授は、身延山は日蓮の在山当初から法華経の聖地として位置づけられており、身延山を目指す信仰の旅は早くから行われていたという(「日蓮―法華経の旅人―」「日蓮聖人と法華文化」展図録所収参照)。このことは、信仰の広がり方、展開を考えるうえでも注目できる。佐渡の人々も、日蓮在世時から、遠く身延山まで日蓮、あるいはその足跡を訪ねている。
そこでここでは、佐渡の信徒が身延山を訪れた二つの信仰の旅の事例から、遠く離れた地域が信仰でつながっていることについて考えてみたい。
一つ目として、日蓮在世時の事例から考えてみたい。
日蓮の佐渡滞在時に信者となった者のうちに、阿仏房・千日尼夫妻、国府入道夫妻らがいる。彼らは、ある時には夜中に日蓮に食事を届けるなどして、日蓮の厳しい流人生活を支えたことで知られる。そのうちの一人、国府入道は、1275(建治元)年、佐渡流罪から赦免となった日蓮が入山した身延山を訪れている。なおこの時、国府入道は供養の品として単衣一領、また、阿仏房の妻千日尼からの供養の品として銭三百文を持参している。
このことに対して日蓮は、国府尼および千日尼に感謝を述べる書状をしたためた。書状は佐渡へ届けられ、現在は千日尼の夫である阿仏房が開基した佐渡市・妙宣寺に伝えられる(国指定重要文化財)。妙宣寺はほかにも阿仏房が身延を往復したことを示す書状なども所蔵しており、日蓮在世時にあって、遠く佐渡から身延を訪れる信徒が複数いたことを確認できる。
また妙宣寺には、日蓮の佐渡滞在期以後となる1275(文永12)年の年紀のある日蓮聖人曼荼羅本尊が2幅伝わる。特定の信者に対する授与書はなく、信者らが集まって題目を唱える題目講の本尊として揮毫されたものと考えられている。これらは、この時期に佐渡で題目講が広く展開し、それを受けて身延山から佐渡の信徒に曼荼羅本尊がもたらされたことを示すものと思われる。