龍背橋から読み解く飛雲閣と滴翠園(2/2ページ)
京都大名誉教授 金坂清則氏
1761(宝暦11)年の親鸞五〇〇回忌の7年後に滴翠園の大整備がなされるより前の1755(同5)年に森幸安が描いた「西本願寺域内地図」には、現在と同じ位置に一枚石の反橋=後の龍背橋と飛雲閣を示す三層の建物が描写されており、そこに記された「亭」とはものみ台のことである。五〇〇回忌の前年に板行された「京西六條本願寺御大繪圖」にも「御もの見」と記されている。
これに対し、雲に浮かんでいるように見えることが飛雲閣という名の由来だという広く流布している説は、龍背橋の側からだけ飛雲閣を見た時の感覚に基づく見方にすぎない。資料によって裏づけられるのは、飛雲閣の高さと眺望に着眼し、これこそが飛雲閣の名の由来であるとする私の認識である。
「飛雲閣記」には「雲は龍に従い、風は虎に従う」という『易経』中の記述を彷彿させるものがある。この点と建物が高いことが認識されていた点に着眼すると、飛雲閣が、龍背橋によって至る天空の館として認識されていたという見方も成り立ち得る。
飛雲閣が非常に細い柱を用いた壁面の少ない軽やかで開放的な建物であり、これが北面の開放性を最大にする形で実現されているのも、借景の双方向性と不可欠に結びついている――この私見も以上によって導くことができる。
そして、この点に関わっては、賓客を迎えるに際しては、飛雲閣の一層の障子をすべて取り払って開放性を最大にし、庭と建物の内部とを一体化することを最初に行ったとの仮説を立てることができ、この仮説は、まさにそう考えた時に私の許に飛び込んできた「西本願寺飛雲閣之圖」によって証明できる。明治期のこの銅版画は、障子を外された一層の二つの部屋のうち最も格式の高い招賢殿に西本願寺の絵画の中でも最も貴重なものと目されていた「雪柳図」があり、八景の間には「瀟湘八景図」があった様子を描く。
なお、バードが飛雲閣を飛雲閣という名ではなく、秀吉の「夏の館」という、西本願寺――日本側の資料には見えない形容詞を用いて表現したのは、赤松連城が、江戸時代からの伝承と夏に最もよく利用されたという事実を踏まえてこう彼女に紹介したことによると考えられるから、賓客をもてなすに際してはまず障子を開け放ったという私の仮説と符合する。
以上略述したような考証を前記の『地名探究』19で行った私は、西本願寺の京都の現在地への造営に当たっては実に多面的な検討がなされたと考えられることを巡っての記述で結んだ。ここにも京都の都市史に関わる興味深い点がある。『地名探究』19をお読みいただければありがたい(抜刷を希望される方は、まで)。
バードが『日本の未踏の地』と題する著書で滴翠園を活写した際、直前に見た虎渓の庭の風景が強く印象に残っていたため、その一文も記した錯誤に私は『完訳日本奥地紀行4』の訳出時に気づき、注記した。それを踏まえ、旅と旅行記を科学する面白さと奥深さの一端を示したいとこの度『地名探究』にまとめ、本稿で要約した。
この点に鑑み、最後にバードの活写を紹介し、筆を擱く。私の訳によって初めて彼女の活写の素晴らしさが正しく伝わることに思いを致しつつ味わっていただければ幸いである。
「巨木は威厳を醸し出していた。影の多い前景の背後には[二つの]堂宇[御影堂と阿弥陀堂]の巨大な屋根がそびえ、真っ赤な楓が鏡のような水面に映り、風変わりな樹幹と深緑の葉をつけた蘇鉄が岩だらけの小島から突き出していた。十一月の暗い空がすべてに荘重さを与えていた。私たちは一枚石の石橋[龍背橋]を渡って池の端にある将軍(編集部注・秀吉を指す)の夏の館[飛雲閣]に入った」([ ]は訳注)