龍背橋から読み解く飛雲閣と滴翠園(1/2ページ)
京都大名誉教授 金坂清則氏
広大な寺域の東南を占める飛雲閣と滴翠園の、西本願寺にとっての重要性は、言をまたない。それぞれが国宝であり国指定名勝であることは、文化財としての歴史的価値の証である。それ故、幾多の書物で取り上げられ、もはや異説の余地はないかのようである。
だが、1878(明治11)年11月に西本願寺を訪れた英国の旅行家、イザベラ・バード(1831~1904)が傑僧赤松連城の案内を得て見聞し、飛雲閣では重要な宗教談義も行い見事に活写した記録の中でのわずか一つの錯誤と、由緒不詳(村岡正氏)とされ従来注目もされてこなかった滴翠園の龍背橋が、虎渓の庭の二つの石橋と酷似する点に着目して計測すると、三つの橋が同じ石切り場から切り出され、元は同じ庭で用いられていたという仮説が浮かび上がる。そしてこれを起点に考証すると、両庭園や飛雲閣について幾つもの新知見を提示できる(『地名探究』19、2021、京都地名研究会刊)。それ故、本紙読者の関心の高まりを期待し、ここに大要を記す。
まず、1610(慶長15)年に聚楽第の庭石が西本願寺に運び込まれたとの『慶長旧記』の記述は、単に運び込まれたのではなく作庭のための搬入だったと解さねばならない。翌年が宗祖親鸞の三五〇回忌だったことからすると、大遠忌に伴う境内整備の一環としての造園だったと考えられる。こうして、龍背橋の由緒が判明する。そしてこのことは、龍背橋と滴翠園、飛雲閣の間の不可分な関係からすると、西本願寺の庭園は池泉回遊式と枯山水という異質な庭園が好一対をなすものとして存在したという私見の起点にもなる。
次に、本願寺史研究では今では否定され、江戸時代になってから創建されたと考えられている(岡村喜史氏)けれども、精緻な建築史研究で知られた宮上茂隆氏が「(飛雲閣が)聚楽第遺構であることは確実と考え」ていたことや、中村昌生氏も「聚楽第の建物であったという伝えも不自然ではなく思われてくる」一面があるとしたこと、また西本願寺の建築に精通する山田雅夫氏も、特に二層と三層の外観が「南蛮文化の雰囲気を漂わせる」と見ていること、しかも飛雲閣が聚楽第から移された遺構という伝承が西本願寺の基本史料から出ていることからすると、飛雲閣が聚楽第にゆかりのものだとみる見解はやはり否定しきれない――そう私には考えられる。
飛雲閣の一層の招賢殿と八景の間を各々飾る「雪柳図」と「瀟湘八景図」が、1617(元和3)年の火災(飛雲閣は無事)後に西本願寺の復興事業の一環として描かれたとみるならば、飛雲閣自体はもっと古いとみても、矛盾はない。
さらに、秀吉への言及があり、聚楽第から移されたとも記されているために史料自体の重要性も無視されてしまったのだろうが、1740(元文5)年に湛如宗主が撰した「飛雲閣記」こそは、飛雲閣の意義や特質を明示する最重要史料である。
ここで湛如は、天と地と人との関係の中国の宇宙論的認識から説き起こし、一層から趣のある庭を眺め、三層に至っては眼下に広がる都ならではの眺めを見て心清らかで爽やかになるというように、飛雲閣の意義を綴る。韻をも踏んだ見事な漢文である。
何よりも注目されるべきなのは飛雲閣が滴翠園の借景であると同時に、滴翠園が御影堂や阿弥陀堂を借景としていること、つまり滴翠園が双方向の借景をもつ庭園であることである。三層に上れば、滴翠園や西本願寺の堂宇、そして都のたたずまいのみならず、都を囲繞する山並みをも味わえた。しかも三層を摘星楼と名付けたごとく、星が輝く夜空や雷鳴轟く天空さえも堪能できた楼閣、飛雲閣!