江戸時代の天台宗と延暦寺(2/2ページ)
相国寺寺史編纂室研究員・叡山学院比叡山文化研究所研究員 藤田和敏氏
そのような輪王寺宮の地位は江戸幕府によって保証されていたものであり、慶応4年(1868年9月から明治元年)1月3日から始まった戊辰戦争で江戸幕府が崩壊したことによって、輪王寺宮を中心とする天台宗の組織構造は解体されることになった。新たに成立した明治政府は、慶応3年12月9日に出された王政復古の大号令で、国家のあり方を「神武天皇による国家創業の政治」に戻すと宣言した。「神武天皇による国家創業の政治」とは、天皇が神道に基づいて政治を行う体制のことを指している。
右の方針に従って、明治政府は慶応4年3月28日に神仏分離令を出した。江戸時代における全国の神社の多くは神仏習合の状態にあり、神社に付属する神宮寺の僧侶が仏式で儀礼を行っていた。このような仏教が優位な形式で神仏が習合した神社のあり方は、神道に基づく政治を目指した明治政府にとって都合が悪かったために、神仏分離令の発令が必要とされたのである。
神仏分離令では、神社における仏像・仏具類を除去することが規定されたが、真っ先にその対象になったのが比叡山の総鎮守である日吉社であった。神仏分離令が発令されたことを知った日吉社の社司たちは、神社の支配権を奪うために実力行使に出て、4月1日に境内にある仏像・仏具・経典など100点以上を焼き捨てた。その後、日吉社において神仏習合の儀礼が復活することはなく、延暦寺は日吉社への影響力を失ったのである。
さらに、5月15日の寛永寺を戦場とする上野戦争により、最後の輪王寺宮である公現法親王は東北地方へ逃れ、仙台藩に身を寄せた。ここに、江戸幕府が創出した輪王寺宮が延暦寺を支配する体制は消滅したのである。明治の新たな時代において天台宗をどのように運営していくのかという難題は、延暦寺に解決が求められることになった。
明治維新直後から、青蓮院・妙法院・梶井の三門跡は滋賀院を拠点に輪王寺宮に代わって天台宗を統轄する試みを開始していた。江戸時代において輪王寺宮が住職を兼務していた滋賀院は、坂本における輪王寺宮の支配拠点となっていたために、三門跡による新たな宗務の拠点は滋賀院に置く必要があった。現在、滋賀院に隣接して天台宗務庁が存在するのは、滋賀院が宗務庁的な役割を果たしていたことの名残なのである。
三門跡による天台宗統轄は、明治4年5月に法親王が住職となる門跡の制度が廃止されたことにより挫折することになった。廃止の理由は、明治政府が進める神道の国教化が大嘗祭など皇室の神事を中核とするものであり、仏門に入っている皇族の存在が不都合になったためである。その後、三門跡に代わって延暦寺東塔東谷の正覚院住職である豪海前大僧正が新たな天台座主となった。その後の天台座主は門跡住職に限定されることなく、延暦寺一山の僧坊住職などが就任することになった。
地方に目を転じると、全国の諸藩が勧請した東照宮や、滋賀県の多賀社、岐阜県の南宮社、長野県の戸隠社、福岡県の高良社、熊本県の阿蘇社など、名だたる大社の祭祀を司っていた天台宗の神宮寺住職はすべて還俗することになった。中・小規模の神社における神宮寺住職の還俗は全国でかなりの数が見られ、天台宗の教線は大幅な縮小を余儀なくされたのである。
明治維新は、天台宗にとって自らの姿を大きく変えてしまう大事件であり、明治以降は傷ついた宗団の組織再編が大きな課題となった。その問題については、今後の課題として研究を進めていきたい。