江戸時代の天台宗と延暦寺(1/2ページ)
相国寺寺史編纂室研究員・叡山学院比叡山文化研究所研究員 藤田和敏氏
現在の天台宗における宗団の組織は、天台座主による統轄の下に、総本山延暦寺と天台宗務庁が全国の末寺を管理する形式になっている。このような組織のあり方が作り上げられたのは、江戸幕府の政策により本末制度が確立された江戸時代であった。本稿では、令和2(2020)年11月に刊行した拙著『近世の天台宗と延暦寺』(法藏館、定価3850円)の成果に基づいて、現在につながる天台宗と延暦寺の組織がどのように形成されたかを示してみたい。
平安時代から戦国時代に至るまで日本の社会に巨大な影響力を及ぼしていた延暦寺は、元亀2(1571)年の織田信長による比叡山焼き討ちで一山がすべて焼失した。考古学の発掘調査で、信長の焼き討ち以前に比叡山上の堂塔の多くはすでに存在していなかったことが指摘されているが、このときに根本中堂などが焼かれており、本能寺の変で信長が死去するまで延暦寺は一旦廃絶したのである。
本能寺の変から2年後の天正12(1584)年に、羽柴秀吉によって延暦寺の再建が認められ、江戸時代に入ると本格的な復興が始められた。徳川家康の信頼を得て江戸幕府の枢機に関わっていた天海は、延暦寺の堂塔整備や法会再興に尽力する一方で、江戸幕府の意向を受けて延暦寺を統制するために二つの宗教施設を創出した。それは、元和3(1617)年に建立された徳川家康を祀る日光東照宮と、寛永2(1625)年に新たな天台宗の総本山として創建された寛永寺である。日光東照宮と寛永寺の存在は、天台宗の拠点が関東に移る大きな要因になった。
天海の没後、江戸幕府の要請で関東に下向して寛永寺・輪王寺両住職を兼帯した守澄法親王が、明暦元(1655)年に天台座主に就任し、輪王寺宮の称号を与えられたことによって、輪王寺宮が延暦寺を従属させる体制が開始された。江戸時代における天台座主は、輪王寺宮以外に、京都の天台宗門跡寺院である青蓮院・妙法院・梶井(現在の三千院)・曼殊院の住職も就任することは可能であった。出家した皇族である法親王が住職を務める門跡寺院は、鎌倉時代から天台座主の輩出を役割としており、関東に居住する輪王寺宮が天台座主の地位を独占していたわけではない。
しかし、杣田善雄氏が『幕藩権力と寺院・門跡』で明らかにしているように、天台座主に実質的な権限はなく、法華大会の開催決定権、延暦寺山内の人事権などは輪王寺宮に決裁権があった。天台座主は有名無実となり、座主自身が「他宗の嘲弄を浴びて無念である」と歎くほどであった。山王一実神道によって江戸幕府の守護神である日光東照宮の祭祀を主宰した輪王寺宮が、天台宗におけるすべての権限を掌握していたのである。
江戸時代の延暦寺では、輪王寺宮による支配の下で、一定の自主性をもった運営が行われた。江戸時代の延暦寺には126の僧坊(延暦寺一山に所属する僧侶の自坊)が存在し、それらは東塔・西塔・横川の三塔を細分化した16の谷に所属していた。三塔には世俗の職務に携わる世間役の長として執行・別当がそれぞれに置かれており(東塔・西塔は執行、横川は別当)、その人選は所属する僧坊住職の合議によって進められたが、彼らが可能であったのは候補者を選出することまでであった。その中から誰を任命するかは輪王寺宮が決定していたのである。江戸時代の天台宗において輪王寺宮の執行力は絶大なものがあり、延暦寺山内で行われる灌頂儀礼の内容にまで介入することが可能であった。