顕本法華宗の日蓮聖人御降誕800年慶讃事業の意義(2/2ページ)
立正大名誉教授 中尾堯氏
『顕本法華宗御本尊集』には、先述の御真蹟御本尊をまず掲げ、顕本法華宗の開祖日什上人とその弟子をはじめとする、先師の曼荼羅本尊の写真と授与書などの脇書を列挙する。次いで「御本尊解説」をあげて、所蔵寺院・寸法・所見等の詳しい説明を加え、昭和に至るまでの宗門の長い伝統を物語っている。なかでも、12幅にのぼる日什上人の真蹟曼荼羅本尊が確認されたことが注目される。日什上人御真蹟は写本が多く真蹟の確定が困難だったが、全体的な調査と研究によって、独特な花押の観察による真蹟の判定ができるようになった。これまで、日蓮聖人の御真蹟についての筆跡や花押の研究が進められてきたが、先師の文書については遅れていて、研究に一石を投じることになる。
次いで、戦国時代の上総国(千葉県)に広まった「七里法華」の開祖日泰上人、織田信長が命じた安土宗論の論者となり迫害された日淵上人、江戸城で浄土宗と宗論をして厳しい法難を蒙った日経上人らの曼荼羅本尊が収録され、顕本法華宗の重い歴史を物語る。なかでも1609(慶長14)年の日経上人曼荼羅本尊には、京都六条河原で蒙った耳削鼻削の刑という想像を絶する受難の体験と、さらなる法難に立ち向かう信仰の決意が長文で記され、宗祖日蓮聖人に殉ずる切々たる心情が窺われる。巻末には、顕本法華宗寺院と縁故寺院所蔵の曼荼羅本尊をまとめた一覧表を掲載して、寺宝目録としての役割を果たしている。
『顕本法華宗史料集』は、まず「日蓮大聖人御真蹟断簡」30幅と「日什大正師諷誦章並置文」をはじめ12通の古文書をあげる。日蓮聖人御真蹟のうち24幅は、妙満寺をはじめ京都と千葉県の諸寺から発見された遺文で、「下山抄」をはじめ2、3行の断片から1紙ほどの断簡で、このようにまとまった形で発表されることは珍しい。
日什上人の諷誦章は、後事を託すべく期待されていた日妙上人の一周忌を弔う「諷誦文」で、図絵の宝塔大曼荼羅を掲げた追善回向の趣旨が述べられている。また、玄妙寺に大曼荼羅を掲げ、日什上人を開山に日妙上人を第1の貫首とする、宗門の定めを記した置文が、合わせてここに記されている。いずれも宗門の出発点を示す、貴重な文書である。
日経上人の書状は、対馬(長崎県)に配流されていた不受不施派の僧日奥に宛てた懇切な書状で、江戸幕府から蒙った激しい法難をしのいで、京都・堺方面を舞台に身命を賭けた布教の決意を報じ、日奥上人が京都に帰った時にはその活動を助けたいと、協力を申し入れる。豊臣秀吉が発願した京都東山方広寺大仏の千僧供養についても、宗門の大勢を押し切って出仕に反対を唱え、日奥に同調する。もう一通は本妙寺に宛てた書状で、日経上人自筆の「お題目」を京都の庶民がしきりに望む様子が記され、臨場感のある古文書である。
続いて経巻・先師写本・要文・著作・綸旨・宣旨類・絵画・仏像・仏具・法衣など、寺宝に対する幅広い関心が窺える。このなかで、妙満寺の「三十番神画像」はつとに有名で、天妙国寺の「宝塔絵曼荼羅」は、この調査会による発見を契機に東京都品川区の文化財に指定されて話題となった。京都嵐山妙祐久遠寺の銅造日蓮聖人坐像は、1643(寛永20)年に造立され、京都上行寺に安置されていた最古の像である。
顕本法華宗において、日蓮聖人御降誕800年の慶讃事業として進められた「天目授与御真蹟曼荼羅本尊」の修理と『顕本法華宗御本尊集』『顕本法華宗史料集』の編纂と刊行は、所期の通り豊かな成果を上げて完成した。長く待たれていた宗門各寺院の寺宝が確認され、未来にわたる護持についての基礎固めができたことは、誠に意義深いことである。今後も、さらなる調査と研究の発展と成果を期待するところである。