顕本法華宗の日蓮聖人御降誕800年慶讃事業の意義(1/2ページ)
立正大名誉教授 中尾堯氏
顕本法華宗総本山の京都妙満寺では、5月22・23日の両日にわたって、日蓮聖人御降誕800年の慶讃大法要が営まれる。この法要にあたり、令和の修復が終わった宗門の至宝、日蓮聖人御真蹟「天目授与曼荼羅本尊」の開眼が厳修される。あわせて、記念事業の一環として完成した『顕本法華宗御本尊集』『顕本法華宗史料集』が奉献される。宗門にとって誠に意義深い慶讃法要として、宗門をあげてその日が待たれている。
修復を終えた日蓮聖人の真蹟曼荼羅本尊は、京都市岩倉の総本山妙満寺に奉安する、顕本法華宗第一の霊宝である。甲斐国身延に入山間もない日蓮聖人が、1274(文永11)年6月に草庵で最初に揮毫された曼荼羅本尊で、弟子の天目に与えられた。この曼荼羅本尊の修理にあたり幾つかの特色が確認され、日蓮聖人が礼拝のために揮毫された「佐渡始顕曼荼羅本尊」と、内容と外観ともにほぼ同じ形式であったことが注目されている。
「天目授与曼荼羅本尊」は、「南無妙法蓮華経」の題目を中心に、釈迦・多宝の二仏に四菩薩をはじめ諸尊を配置し、尊名に「南無」を冠した「総帰命」の形式である。揮毫に用いられた生地は、幅78・7㌢に縦165・8㌢の絹地で、絹本の真蹟曼荼羅本尊としてはただこの1幅のみが現存し、他はすべて紙本である。修理にあたって表装を解くと、その絹地には縦の折皺が多くみられ、長期間にわたり仏壇に掲げられていたと推測される。
この曼荼羅本尊を前にして想起されるのは、佐渡に配流されていた日蓮聖人が、1273(文永10)年7月8日に書き顕わされた「佐渡始顕曼荼羅本尊」である。後に身延山に移されて久遠寺に伝来していたが、1875(明治8)年の身延山大火によって焼失して現存しない。日亨上人の『御本尊鑑』の記事によると、幅1尺6寸1分(77・3㌢)に長5尺8寸2分(165・1㌢)の絹地に揮毫された、総帰命式の堂々とした曼荼羅本尊である。妙満寺の「天目授与御真蹟曼荼羅本尊」は、この「佐渡始顕曼荼羅本尊」と同じ形で、身延ご入山後の最初に染筆された由緒深い曼荼羅本尊である。絹地に印された細かな縦皺は、身延山の仏堂に掲げられていた痕跡ともみられる。
妙満寺では、天目授与の曼荼羅本尊を丁重に護り、日蓮聖人御降誕800年の記念事業として修理の計画が立てられた。幸い、妙満寺の伽藍に近い土地に、国宝をはじめ文化財修理の経験豊かな藤岡光影堂が工房を構え、長期間にわたる日蓮聖人御真蹟修理の実績をもとに、修理を担当し進めることができた。もとの軸の中には、1613(慶長18)年と1710(宝永7)年の修理記録があり、これまで御真蹟の護持に心を尽くした様子が窺える。この度の修理事業によって、国宝と同等の修理が達成され、御降誕800年の大会に開眼供養をあげるに至り、護持の伝統に一時期を画す「令和修理」である。
顕本法華宗では、日蓮聖人御降誕800年を期して「顕本史料調査委員会」を組織し、6年間にわたり各寺院に所蔵する寺宝の調査を進めてきた。若手の住職・教師が委員長のもとに力をあわせ、私が顧問の形でこれに加わり、全国の末寺を訪れて寺宝をくわしく調査した。調査員は、自坊の務めがあるなか、幾日もの調査旅行は苦労なことであったが、計画は確実に実行され成果を上げた。これらの史料を集大成して寺宝の一覧を作成し、一々にその写真をつけて寺院ごとに編集し、『顕本法華宗御本尊集』と『顕本法華宗史料集』の2部に編成しなおして、日蓮聖人御降誕800年記念として刊行された。