瑩山紹瑾禅師『洞谷記』現代語訳が完成(2/2ページ)
駒澤大非常勤講師・曹洞宗善龍寺住職 竹内弘道氏
『洞谷記』の後半部分には、『瑩山清規』との関連性が認められる行事についての記録や、新たに住持を迎える際の、手続き、手順、儀式の準備など、詳細に作られたマニュアルのような内容がある。しかし、ここに記されているさまざまな事柄は、依拠する他の清規があったのか、あるいは実際に行った行事・儀式の記録に基づくのか、『瑩山清規』の成り立ちと同様に今後究明が俟たれるテーマである。
そもそも鎌倉新仏教とそれ以前の仏教を分ける大きな特徴は、新仏教の諸宗が、国家的得度・授戒制とは関わりなく、独自の入門儀礼システムを創り、自前で構成員を再生産するシステムを確立したところにある。「発心作僧の事」は初期の曹洞教団が実に多様な経歴・身分からなる人々を構成員に取り込み、入門審査を行い、教育し拡大していったことを伝えている。それらの人々を列挙すると、顕密(天台宗・真言宗)の学徒、形は出家のようだが妻子持ちの在家人、地頭・御家人、雑色(下級役人)や土民(農民)、諸職(さまざまな職業人)、遊人一類の者(定職を持たない者)、などである。
瑩山禅師は臨済宗の人々とも交流があったが、注目すべきことは、筆頭の弟子明峯素哲禅師は建仁寺で開山栄西禅師の塔頭の塔主を務めており、永光寺の制中に大衆に説法をしに来ていることである。臨済宗との交流は今日よりはるかに垣根が低かったのであろう。
瑩山禅師は日本の中世社会に生きた一人の禅者であり、誰もがまず関心を抱くのは禅僧としての言葉と行動であろう。しかし、『洞谷記』から迫ってくるのは予想をはるかに超えて、中世の文化と信仰と習俗を身にまとった瑩山禅師の姿である。
信仰の面ですぐに気づくのは、瑩山禅師が、幼少期から母の篤い観音信仰の感化を受けて育った、観音信者であるということである。また瑩山禅師は「自伝」で自ら「白山の氏子」であると表明している。北陸の地に生まれ育った瑩山禅師が白山信仰を持つのはごく自然なことであろう。神祇に対する崇敬の姿勢も随所にうかがわれる。神仏習合を日本仏教の古層ととらえるようになった今日の視点からすればこれは特別なことではない。貴重な記録としては八幡の神が夢のなかに現れて告げた言葉をそのまま書き留めたものもある。
また『洞谷記』には実に多くの夢の話が「感夢」「霊夢」「瑞夢」などの言葉とともに残されている。瑩山禅師は夢で未来の吉凶を占い、夢に力を得、夢で仏に会い、夢中で悟りさえ得るのである。中世人の意識の中では夢と現実の二つの世界を隔てるものはなく、夢は現実に生きている世界に匹敵する重みと価値をもつものととらえられていた。
瑩山禅師は伽藍の普請の際は、必ず自身や開基の六合日を選んでいる。六合日とは生まれ年の干支に応じた吉日である。吉日は星宿からも選ばれている。それらは陰陽道や宿曜道に関わることであり、そこに瑩山禅師の精神世界を形づくっている重層的な中世の宗教文化を垣間見ることができる。『洞谷記』を読むことは、中世に生きた瑩山禅師を、丸ごと味わうことであり、そこにこそ本書の醍醐味がある。
瑩山禅師の性格・気質については、若年のときは人並み外れて癇癪持ちで、周囲ももてあますほどであったと、自身が「円通院縁起」のなかで述べている。自身の生い立ちや、親族に対する心情をこれほど率直に書き残している禅文献も希有と思われる。
『洞谷記』からは両祖を貫く宗旨が何であったかを知ることができる。近世以来体系化されてきた道元禅師中心の曹洞宗の「宗学」は、実はこの視点を欠く。末尾の「能州洞谷山永光寺瑩山和尚語録」は、宗旨の中心が只管打坐の坐禅であり、坐禅中に諸仏の境界を味わう自受用三昧にあることを示している。また、近年駒澤大学の小川隆氏の研究によって明らかにされた、石頭系(曹洞禅系)の禅の特徴である「あるがままの自己に還元されない別次元の本来の自己―『渠』『主人公』―への探求」も、瑩山禅師と弟子との問答中に確認できるのである。いずれにせよ『洞谷記』は興味の尽きない史料であることは疑いない。