瑩山紹瑾禅師『洞谷記』現代語訳が完成(1/2ページ)
駒澤大非常勤講師・曹洞宗善龍寺住職 竹内弘道氏
『現代語訳 瑩山禅師「洞谷記」』が4月8日に上梓された。この準備は、平成27年7月30日に刊行された、東隆眞博士監修・『洞谷記』研究会編『諸本対校 瑩山禅師「洞谷記」』の後を承けて続けられていた。作成に携わった一人として『洞谷記』について紹介したい。合わせて曹洞宗では両祖として、道元禅師と並び称される瑩山紹瑾禅師について認識を深めていただければ幸いである。
『洞谷記』は数多い禅宗文献のなかでは類いなき貴重な特徴をもっている。禅の語録として正式な地位に位置づけられるものは、住持の説法などを筆録・編集して、禅者の名を冠し『○○禅師語録』あるいは『○○禅師広録』と名づけられた書物である。しかし『洞谷記』はこうした語録類とは形式をまったく異にする。その内容の大半は、永光寺を開創する当初からの日記体の記録を中心とするさまざまな文書の集まりである。
主なものを列記すれば、寄進を受けた永光寺の地のこと、開基となった檀越のこと、叢林の生活記録、随想、覚え書き、自伝、祖母や母など肉親のこと、永光寺の十境を愛でた漢詩、僧堂の行事・儀式の次第、門人との問答、詳細な儀式の配役や準備、儀式の記録、清規の細則、門下に後世を託した「置文」など、おおよそ既存の語録には見られない多種多様な内容が含まれている。『洞谷記』は、草創期の禅宗教団の胎動の足跡であるとともに、中世に生きた禅僧の精神世界と生活の息吹を今に伝える貴重な記録である。
日本曹洞宗の開祖は、越前に大本山永平寺を開き、『正法眼蔵』ほか多くの著録を残された道元禅師であることは多くの人が知っていよう。しかし、教団の実質的拡大は、瑩山禅師の法嗣である大本山總持寺二代の峨山韶碩禅師とその門下の活躍により始まったといってよい。そして門下の弟子達が力を合わせ、交代で本山を護持し発展させるという基本的方針は、瑩山禅師によって示されたのである。そのことが、曹洞宗で瑩山禅師が太祖と仰がれるゆえんでもある。『洞谷記』は後世に思いを託す、瑩山禅師の言葉を随所に伝えている。
瑩山禅師は永光寺の裏山に、如浄禅師の語録、道元禅師の霊骨、懐奘禅師の血経、義介禅師の嗣書と、自ら書写した大蔵経と嗣書を埋め五老峯と名付けた。『洞谷記』所収の「当山尽未来際置文」には、門人が、五老峯を崇敬して結束し、「檀那を敬うこと仏の如く」に、師檀力を合わせて門風を盛んにすることを「未来際の本望」とする旨が記されている。この五老峯の建立は、中国の如浄禅師から瑩山禅師へと続く曹洞宗の法統を内・外に示し、永光寺をその中心とすることを宣言したものといってよい。
道元禅師より三代を経るも、いまだ教団は発展の初期的段階にあった。それは何が原因だったのであろうか。初期永平寺教団は道元禅師のもとに、日本達磨宗の宗徒が集団で帰入したことによって成立したことが知られている。実際、瑩山禅師の師である義介禅師は日本達磨宗の師懐鑑上人から伝受した臨済宗の嗣書も相承していた。このような初期の教団の内情については、これまでさまざまな説が交わされてきた。瑩山禅師は師の嗣書を五老峯に埋めることによって、臨済の師承を封印し、門下の洞門としての意識的統合と結束をめざし、同時に、曹洞宗の法統を世間に向かって掲げ示したものと考えられる。その意味で、永光寺と五老峯の建立は、日本禅宗史上特筆すべき出来事ということができるのである。そのほかにも『洞谷記』は、制度が整えられる以前の、草創期の曹洞教団のさまざまな姿を今日に伝える好個の史料である。