大師号「弘法大師」の下賜から千百年(2/2ページ)
空海研究所所長 武内孝善氏
寛平法皇の上奏文は偽作とすると、大師号の下賜を上表したのは観賢僧正だけとなります。観賢は二度、延喜18年10月16日と同21年10月2日に上表し、同年10月27日に「弘法大師」の諡号が下賜されました。
ではなぜ、大師号はこの時期に上奏され、下賜されたか。諡号下賜の勅書を検討するまえに、このことを考えておきます。
空海に大師号が下賜されたとき、中心的な役割を果たしたのは誰か。3人の名をあげることができます。①二度上表した観賢②偽作ではあるが上奏文の残る寛平法皇③大師号を下賜された醍醐天皇――です。最初に上奏された延喜18年から同21年に下賜されるまでの間、醍醐天皇・寛平法皇・観賢の3名が関わりをもった最大のできごとは、『三十帖策子』の回収とその天覧でした。この天覧こそが、大師号の下賜に、極めて大きな役割を果たしたと考えます。
『三十帖策子』とは、在唐中の空海が経典・儀軌など150部を筆録した枡形の小冊子をさし、東寺経蔵に秘蔵されていた。貞観16(874)年、真然が持ち出し、弟子の寿長・無空へと伝えた。延喜16年、随身していた無空が山城圍提寺で亡くなったあと、『策子』はその弟子たちが分散所持していた。根本の法文が空しく散逸せんとするのを藤原忠平が醍醐天皇に奏上したところ、天皇はその回収を観賢に命じた。すべてを回収できなかった観賢は、延喜19年2月、寛平法皇の力をかりてすべてを回収して目録を作成し、同年3月1日天覧に供した。天皇は同年11月2日、革筥を贈るとともに、東寺経蔵に秘蔵することを命じました。
天覧の場には、天皇だけでなく寛平法皇も臨席されていたでしょう。『策子』を目にされた方たちは、空海の入唐のご労苦を偲ぶとともに、その大いなる恩恵を語ったなかで、大師号のことが話題になったのではなかったか。
これらの動きのちょうど真ん中にあたる延喜18年10月、観賢は空海への大師号の下賜を上表した。この時は、天皇の内意は得られたが、勅書は出されなかったという。同21年10月の2度目の上表に応えて勅書が下されたのでした。
空海に大師号が下賜されたときの勅書は諸書に収載されているが、その内容を分析したものはありません。現代語訳など考えましたが、紙数が尽きました。大師号「弘法大師」の出典を記しておきましょう。
観賢は二度目の上表で、「本覚大師」を賜りたいと申しでましたが、醍醐天皇は大師号「弘法大師」を下賜されたのでした。この「弘法大師」の出典を、賢宝が『久米流記』所収『無畏三蔵懸記』の「来葉に必ず弘法利生の菩薩有り。此の法を世に恢むべし」とみなしたので、これを踏襲する方を見かけますが、『久米流記』の成立は鎌倉時代まで降り、出典とはなりえません。
私は、空海の著作に求めるべきと考え、「弘法」を検索したところ、「弘法利人」(3カ所)、「弘法利人之至願」(1カ所)、「弘法利生」(1カ所)の三つのことばを見いだし、「弘法大師」の出典はこれだと直感しました。「弘法利人」は「法を弘めて人びとを救い利益すること」、「弘法利生」は「法を弘めて生きとし生けるものすべてを救い利益すること」と解されます。何よりもでてくる場面です。「弘法利人」は恵果和尚の人となりを記すところで、ただ一つの願いは「弘法利人=いかにすれば法を弘め人びとを救うことができるか」であったとあります。「弘法利人之至願」は弘仁6(815)年4月、空海が密教をわが国に広め定着させる運動を本格的にはじめられた劈頭に書いた『勧縁疏』に、「今、弘法利人の至願に任えず」と記されています。大々的に密教宣布を表明された最初の文章で、この最新の仏教=密教を弘めることによって、日々苦しんでいる人たちに何とか手を差しのべたい、お救いしたいと宣言された背景に、恵果和尚と同じこころ・精神を読みとることができます。
密教の宣布を誓われました最初のことばが「弘法利人の至願」であり、このことばから「弘法大師」が生まれたと考えます。「弘法大師」とは、何と素晴らしいことばでしょう。このことばに着目された方の炯眼に、満腔の敬意を表したい。