大師号「弘法大師」の下賜から千百年(1/2ページ)
空海研究所所長 武内孝善氏
延喜21(921)年10月27日、醍醐天皇は故贈大僧正空海に「弘法大師」の謚号(=贈り名)を下賜されました。『日本紀略』同日条に、「故贈大僧正空海に勅謚して、弘法大師と曰う。権大僧都観賢の上表に依るなり」とあり、同じ日付の勅書が伝存することから、この日に大師号が下賜されたことは間違いありません。
この大師号の下賜は、寛平法皇(宇多天皇)と観賢僧正とによる、3年前から3回行われた上奏の結果であったとみなされてきました。とはいえ、この大師号の下賜には、問題がなくはありません。たとえば、①寛平法皇による上奏は、史実とみなしてよいか②大師号は、なぜこの時期に上奏され下賜されたのか③大師号「弘法大師」の出典――などがあります。これらの問題点を中心に、私見を述べることにします。
はじめに、いかなる経緯をへて大師号は下賜されたのかを知るため、延喜18(918)年からの真言宗僧の動きを記してみましょう。
延喜18年8月11日 寛平法皇、贈大僧正空海に謚号を賜わらんことを請はせ給う。
同18年10月16日 観賢、お大師さまに謚号を賜わらんことを奏請す。
同21(921)年10月2日 観賢、重ねてお大師さまに謚号「本覚大師」を賜わらんことを奏請す。
同21年10月5日 観賢、早く謚号を賜わらんとの書を草す。
同21年10月27日 贈大僧正空海、「弘法大師」の謚号を賜う。
従来は、寛平法皇による1回と観賢による2回の計3回にわたる上奏をへて、勅許されたと考えられてきました。しかるに、3回の上奏文、特に寛平法皇のそれを本物とみなしてよいかで、先学の見解は分かれます。
延喜18年8月11日の寛平法皇の上奏文は真撰であり、大師号の下賜に大いに力があったとみなすのは以下の先徳たちです。紙数の関係から名前だけをあげます。①杲宝は『我慢鈔』②賢宝『弘法大師行状要集』第六③得仁『続弘法大師年譜』第三④釈雲照は『大日本国教論』⑤長谷宝秀師は『弘法大師伝全集』第一⑥『密教大辞典』⑦森田龍僊「観賢僧正開廟の真相」⑧蓮生観善『弘法大師伝』――などです。一方、上奏文は寛平法皇の真撰にあらず、とみなすのが守山聖真『文化史上より見たる弘法大師伝』です。その根拠は、①文章の大部分が『贈大僧正空海和上伝』と同じである②法皇の上奏文としては荘重さに欠ける③表請文としての体をなしていない――でした。
私も、上奏文を寛平法皇の真撰とはみなしません。第一の理由は、寛平法皇は極めて賢明な天皇で教養もあり、漢詩文にもよく通じておられた。もし法皇が上奏文を草したとすれば、空海の事績を記すのに『空海和上伝』をそっくり引き写すことは考えがたい。第二は、上奏文の後半に意味不明の箇所があること。恐らく、延喜18年10月16日付の観賢上表文を下敷きにして書かれたからであろう。よって、法皇の上奏文は真撰とはいえません。とはいえ、寛平法皇が重要な役割を果たされたことは、大師号が下賜されたときの勅書に「况や太上法皇、既に其の道を味わい、追って其の人を憶う」とあることから間違いありません。