「現在のこと」としてのオウム事件―地下鉄サリン事件から25年⑩(2/2ページ)
國學院大名誉教授 井上順孝氏
麻原がどのような宗教的論理で幹部たちを犯罪へといざなったか。幹部たちはなぜそれをおかしいと思わなかったのか。脱会した信者たちはどのように心が揺れているか。なぜ一部の人はオウム真理教をもてはやしたのか。オウム事件から後世への教訓とすべきことは何かを考えるという課題が幾多見いだされる。
実はここに述べた二つの点は、公益財団法人国際宗教研究所・宗教情報リサーチセンターの10人を超える研究員が、事件後10年以上にわたって取り組んだことである。センターで収集した大量の資料を検討し、何度も議論を重ねた。センターの設立経緯からして、それはなさねばならぬ課題であった。その成果が同センター編の2冊の書『情報時代のオウム真理教』(春秋社、2011年)と『〈オウム真理教〉を検証する』(同、15年)である。
2冊の刊行後しばらく経って気づいたことがある。その後もオウム真理教事件について論じたり、批評したりする書や論文、あるいは論評等が刊行されたが、その中にはこの2冊の存在さえ知らないと思われるものが少なくなかった。今後もオウム事件への言及は続くと考えられるが、確かな情報と基本資料を踏まえるという姿勢のないものの跋扈に要注意である。
過去に起こったことをどう解釈するかは、立場によって、また何に焦点を与えるかによって大きく異なってくる。そのことにいわば悪乗りして、あったこともなかったことにしたり、都合の悪いことから目を背け、蓋をするという風潮が、政治のみならず社会全体に見られる。
人間の心がどのような危うさを秘めているか。社会はどのような状況のときに危険な方向へと突っ走るのか。そうしたことに考えを深めていく上には、まずは既に起こったこと、そして歴史上の出来事と丹念に向かいあうことである。人間も社会もきわめて似た失敗を繰り返している。そこから学ぶことは、言うは易く、実際はとてつもなく難しい。「歴史は繰り返される」という言葉が覆いかぶさってくるゆえんである。
それで諦めたら事態は悪化の速度を速めるだけである。起こったことの中に避けるべきことを見いだしたなら、同じようなことがまた繰り返されていないか見渡してみることである。ではサリン事件に至るまでのオウム真理教について、批判されたのは具体的に何であったか。
サティアンで共同生活していた信者に対する厳しい統制。尊師の教えに決して疑問を抱かず従うようにという教え。いったんメンバーになったら、決して離反させないようにするやり方。社会から批判されても自らを正当化するためには、一切それには耳を傾けない広報関係者の態度。組織を守るために邪魔になると思った人間は殺すこともいとわなかったこと。
全てがそろっていると、とても社会的に許容できない団体と思えるが、一つひとつを見ていくと、他の宗教においても部分的にあてはまるところがなくはない。この点が宗教関係者の一部に、この事件から目を背けようとする姿勢がうかがえる理由ではないかと思われる。ひょっとしたら自らを批判することになるのかもしれないという事態を、無意識のうちに恐れていると言ったらいいだろう。
だが信仰の有無にかかわらず、横たわる問いがある。どこからが布施や献金の強要になるのか、他者への信仰の強要になるのか。どのようなやり方が騙しての宗教勧誘となるのか。たとえ尊敬する指導者からの指示であっても拒否すべきことは何か。
明らかに法を逸脱していなくても、社会的許容という観点からは境界領域にあると認知すべきことがある。オウム事件と向かい合うことは、それを考え抜くことである。
(本連載は今回で終わります)