「現在のこと」としてのオウム事件―地下鉄サリン事件から25年⑩(1/2ページ)
國學院大名誉教授 井上順孝氏
首都圏のみならず日本中に衝撃をもたらした地下鉄サリン事件だが、四半世紀が過ぎれば、人によっては遠いかすかな記憶であり、あるいは生まれる前の話で実感の乏しいものであろう。2018年7月に麻原彰晃以下13人の死刑が執行されたことで、オウム真理教関連の事件は一段落ついた、というふうに思いたい人もいる。
他方で死ぬまで拭いされない記憶を刻まれた人たちがいる。サリン事件をはじめオウム真理教が起こした数々の犯罪によって殺された被害者の家族あるいは被害者と親しかった人。松本サリン事件、地下鉄サリン事件で負傷した多数の人々。脱会して身をひそめるようにして生きている元信者たちもそうであろう。これらの人たちの多くは、後継団体であるアレフとひかりの輪が活動を継続しているだけでなく、堂々と勧誘活動をしているという事実に、信じがたい思いを抱いているに違いない。
宗教はどのような活動までが社会において許容されるのか。許容し難さが露わになってきたときに、社会はどう向かいあうべきなのか。オウム事件はいくつかの深刻で複雑な問いをもたらした。宗教団体が無差別テロを行うというのは、日本の近代史上初めてのことであり、日本社会が許容する行為の範囲をはるかに超えていたのは言うまでもない。だが、それは唐突に生じたのではない。
ハインリッヒの法則と呼ばれるものがある。これは一つの重大事故の背後に29の軽微な事故があり、その背後に300の異常が存在するというものである。労働災害の経験則として広く知られる。ここから悲惨な大事件が起こる背後には、必ずその前兆となるような事件が起きているというふうに一般化されるようになった。
オウム真理教の場合は、「軽微な事故」どころではない事件を、サリン事件以前にいくつも起こしている。修行中に死亡した真島氏の遺体焼却、信者であった田口氏のリンチ殺人事件、坂本堤弁護士一家殺人事件、仮谷氏拉致監禁致死事件等々、殺人、殺人未遂、傷害など数多くの犯罪に関与している。サリン事件が「弟子の暴走」などという説を主張した論者もいるが、いずれも麻原彰晃の指示なしには起こり得なかった。
ハインリッヒの法則はむしろカルト問題の領域の話に応用できる。サリン事件に比べれば軽微と言えるかもしれないが、決して見過ごすべきでない宗教関連の事件が、日本でいくつも起こっている。オウム真理教の後継団体の活動、表面上団体から離れたものの麻原彰晃への帰依がなくなっていない人たちのありようだけでなく、批判的な目を注がざるを得ない他の宗教団体の活動も、「現在のこと」としてのオウム事件というフレームの中に含めたい。
サリン事件後今日に至るまで、オウム真理教あるいはオウム事件を対象とした膨大な量の報道がなされ、論評、論文、書籍などが刊行された。中にはそれまで宗教について論じたことのなかった研究者やジャーナリストによるものもあった。これが関係しているかもしれないが、起こったことや資料・データを踏まえて議論しているものが意外に少ない。オウム事件を「現在のこと」として考える上では、少なくとも次の2点は踏まえておかなければならない。
第1は、地下鉄サリン事件が起こる以前に、どのようなオウム関連の出来事が社会で関心を集め、どう評価されていたかである。否定的意見が多数であったが、中には擁護する意見もあった。面白おかしく扱うものも少なくなかった。事件以後の批判一色に比べるとかなり多様な評価が存在した。とくに社会的影響の大きい雑誌やテレビなどのメディアがどのような扱い方をしていたか。この点は今後を考える上でも、しっかり確認しその知見を活かしていかなければならない。
第2は、一連の事件から得られる教訓は何か、である。警察による捜査が進み、多くの裁判が開かれると、麻原や幹部がどのように犯罪に関与したのかが明らかになってきた。オウム真理教が布教に使っていた機関誌、ビデオ、麻原の著書の内容も分かった。脱会した人たちが作った「カナリアの会」の活動で、組織の実態も分かるようになった。事件の核心的部分への議論が深まるはずである。