宗教報道の問題―地下鉄サリン事件から25年⑥(2/2ページ)
北海道大大学院教授 櫻井義秀氏
この感覚がわかると、カルト信者の入信過程や心理状態にもこれかと気づける。カルト教団では定番のここだけの話や、この人だけが真理を知っているという誘い文句をシャワーのごとく降り注ぎ、信者に思考の省力化を生じさせる。信者は自分で確認することなく、楽して話をまとめてしまうのが習い性になるである。
実のところ、マスメディア以上に学者は頭だけでまとめがちであり、自分の思い込みに合う情報(論文や著作)だけで構図を作ってそれらしく語ってしまう。これもまた、カルトに入った信者が自己の認知(教団のすりこみ)に合う知識や経験だけで認識の枠組みを作ってしまい、それと齟齬を来す情報やそうしたアドバイスをする人間関係を絶ってしまう状況に似ている。複眼的思考や批判を受け入れるというのは誰にとっても難しい。
最後に、コロナ禍の真っ只中にある日本社会がカルトの格好の草刈り場になっている可能性を示唆しておきたい。その責任の一端はマスメディアやアカデミズムにある。
新型コロナウイルスより怖いのは、感染者(回復者)と家族や職場、関係者に向けられる差別的視線である。連日感染状況が感染者数として都道府県ごとに報じられ、自治体では感染者の行動履歴を暴露するところもあった。人権やプライバシーよりも感染予防の公益が重視され、正当な補償をせずに自粛要請だけで行動制限をなそうとする政策が、自粛警察や排除意識を生み出した。政府対応が後手に回るなかで、自治体の長にぶら下がる報道が増え、科学的根拠に基づいてなされるべき感染症対応がワイドショーで消費され、概念の誤用も多岐にわたった。
ソーシャル・ディスタンスは物理的距離と訳すべきところ、カタカナで用いられ、日本では文字通り人間関係の疎遠化となった。新しい生活様式は自然発生的なカルチャーではなく、衛生的配慮とICT活用の教育・就労・余暇の官製標語となった。これらの行動指針に従わない(えない)人々に道徳的スティグマ(烙印)がはられ、職種や居住地域による人々の分断が進んでいる。
ジャーナリズムは政治批判や社会批評に長けているが、感染の恐怖を煽られた市民が感染リスクの高い職業従事者の家族を遠ざけたり、感染者数が少ない都道府県において感染者と家族が居たたまれない圧力を受けたりする「恐怖の感染」を促進した自覚に乏しい。新型コロナウイルスの報道は、病者が人間であることを抽象化した「感染者の数」だけで一喜一憂し、パフォーマンスベースの人気政治家や専門家へのぶら下がり会見の模様を中継するものが多い。
知的怠慢は大学も同様であり、適切な感染予防をなしてキャンパスでの授業・研究を継続するよりオンライン授業で感染リスクを低減する方向を優先し続けている。
ジャーナリストや研究者であっても公益の大義名分、恐怖の感染、専門家への依存が顕著である。カルト団体は人間と社会の複雑な問題に一面的な答えを与え、自分の頭で悩み、考え、試行錯誤のリスクを避けることを説き、マニュアルと専門家への依存を勧める。
一気に人々の孤立・日常生活の個別化が進み、ICT技術による結合が促進されると、多様性や夾雑物にあふれたリアルな世界で保たれる情報処理の感覚やメンタルな均衡が崩れる。
アレフ他複数のカルト団体はSNSを駆使し、同質的指向性を持つ人々に難なくアプローチしていく。そして、居場所を失った人々に心地よさそうに見える空間を提供している。
大学新入生はオンライン授業によってキャンパスというリアルな空間から排除され、友人や先輩というつながりとサークルやバイト先という居場所を欠いたまま、理不尽な生活に耐えている。大学の教職員以上にカルト側のアプローチは巧妙で手厚い。出遅れ感が否めない。しかし、コロナ禍でこそ、大学教育の本領が問われるのである。