宗教報道の問題―地下鉄サリン事件から25年⑥(1/2ページ)
北海道大大学院教授 櫻井義秀氏
オウム真理教が松本サリン事件と地下鉄サリン事件においてそれぞれ7人、13人の無辜の民を殺害し、数千人の人々に重軽傷を与えた事件から四半世紀が経過した。事件を主導した教祖の松本智津夫、実行犯の教団幹部12人に死刑が執行され、事件は終結した。
もちろん、サリン事件の後遺症をおう人々や肉親を殺害された遺族の苦悩は続く。オウム裁判では、さまざまな経緯や動機で入信後、非合法活動や殺人の命令に従った若者の心理を十分に解明できていないという声もある。長きにわたってメディアや識者、宗教研究者たちは、オウム真理教とは何であったのかと問うてきた。
「真相/深層に迫りたい」というジャーナリスト魂や研究者の知的欲求は重要である。しかし、裁判で公開された起訴状や証拠、法廷での答弁、判決から明らかになった事実では不足という場合、何が不明のままなのか問題を特定すべきである。冤罪や事実誤認の可能性があるのか、量刑に問題があるのか、あるいは、宗教的暴力を教祖や高弟たちの個人的特異性やオウムの権威主義的権力構造から考察する信者たちの心理分析に同意できないのか。
自分の問いが定まらないまま、もやもや感だけでオウム事件は終わっていないと叫んでも意味はない。そのうえで、自分に手がかりを探し出す調査能力や根拠となる資料の入手可能性をも考える必要がある。実行犯や信者の手記・証言を読み込む場合も、事実的事柄の断片と、信者の教団理解や信仰、もしくは悔恨や怒りに基づいたオウムとは何だったのかという再解釈とを区別しなければならない。回顧的証言の分析は、記憶の研究や教説・語りの宗教研究が明らかにしているようにそう簡単なことではない。
実際、この水準で問いをたて探求を継続している人は極めて少ない。大方のメディアは3月20日が近づくと絵(映像)になるネタで紙面や番組を構成するにとどまり、研究者がオウム真理教事件を回顧する発言をしても現在の教団には関わりたがらないのである。
ところで、大学で学生相談に携わるものにとって、オウム事件よりも、現在約1650人の信者集団として存続しているアレフ、ひかりの輪他分派組織の方が問題である。なぜなら1999年以来、団体規制法による観察処分で監視や施設調査が継続しているにもかかわらず、これらの後継組織は活発な信者の勧誘活動をSNSで行い、学生や社会人が学習サークルやヨガ教室と誤信して入信するケースが後を絶たないからである。
このことを記者に話すたびに、「オウムはまだ活動しているのですか」と驚かれる。ついでに、「年に1、2回関係者に話を聞いて記事を載せてもインパクトないですね」と言うと、「じゃあ、どうしたらいいんですか」と問い返される。そこで、私は人の話を聞いてまとめるだけでなく、先の①問いを明確にすること、②調査方法を検討すること、を自分の頭で考えてみてはどうかと勧める。
大半の記者はもっと親切に語ってくれる専門家を探すだろう。脱会者の証言は映像のバリューになるから紹介してくれ、とここだけ粘る人には、学生相談の守秘義務を話し、納得してもらう。しかし、中には教団施設の前で何日も張り込み、苦心して関係者から証言を得てくる人がいる。そのうえで自分の理解や解釈をチェックしてほしいという人には、カルト教団の構造や語りの解釈についてアドバイスする。
現在のアレフに関して一部分でも知るためには膨大な手間暇がかかり、気の利いた話や絵になる写真など撮れないことに気づいてもらえればよい。逆に言えば、すぐにストンと納得できる関係者や専門家の話、あるいは読者や視聴者を引きつけるストーリーの構築性に無自覚なカルト報道や宗教報道は、実に危ういのである。