オウムの暴走を許したのは誰か―地下鉄サリン事件から25年③(1/2ページ)
弁護士 中村裕二氏
1 暴走の始まり。横浜弁護士会(現神奈川県弁護士会)に所属していた坂本堤弁護士は、1989年5月、オウム真理教(以下「オウム」という)に未成年の子どもたちを奪われた親たちからの相談を受け、オウムに対し子どもたちの取り戻しを求めた。その矢先の同年11月、坂本弁護士は妻子と共に横浜市の自宅でオウムの幹部らに殺害された。
しかし、坂本事件以前の88年9月、89年2月、同月にオウムの内部ですでに3人が死亡していた。そのうち1件は、田口修二殺害事件として立件されている。オウムの暴走は、坂本事件よりも前に始まっていたのである。
2 その後もオウムの暴走は止まらず、死者は判明しているだけで47人に及ぶ。
8人が松本サリン事件、14人が地下鉄サリン事件で死亡した。受傷者は、地下鉄サリン事件だけでも6千人を超える。そして、2018年7月、死刑囚13人の死刑が執行された。もし、オウムの暴走をもっと早く止めることができていたならば,死刑囚も含め少なくとも60人の命が失われることはなかった。
1 1988年9月の信者殺害事件から、95年3月20日の地下鉄サリン事件までの6年半の間、警察はなぜオウムを追い詰めることができなかったのか。
警察の前に立ちはだかったのは、①宗教団体の壁②管轄の壁③化学兵器の壁、そして④組織の壁であった。警察はそれら四つの大きな壁の前に、オウムの暴走を許すこととなる。
2 坂本弁護士一家を殺害した実行犯の一人である宮前一明は、犯行直後にオウムから3億円を持ち逃げして脱走し、90年2月、神奈川県警と坂本弁護士が所属していた横浜法律事務所に匿名の手紙を送りつけ、長男龍彦ちゃんの遺体を埋めた現場の位置を示した地図や写真を同封した。神奈川県警は、この手紙の差出人が宮前一明であることを指紋から突き止めていたにもかかわらず、オウムにまで捜査が及ばず、坂本事件解決の大きなチャンスを逃してしまった。それは、オウムが信教の自由を盾とする宗教団体であり、宗教団体の壁の前に警察はなすすべもなかったからである。
そのころ、私が警察庁で國松孝次刑事局長(当時)と面談した際、國松局長は「相手が特殊な集団なので、慎重に捜査を進めている」と発言した。オウムが宗教団体であるから捜査に腰が引けていた警察の姿が明確に浮かび上がる。確かに、オウムの教祖麻原彰晃は、ことあるごとに「警察によるオウムバッシングは宗教弾圧だ」との発言を繰り返していた。警察が抱えていた大本事件(戦前の宗教弾圧事件)のトラウマを麻原がうまく利用したのだ。しかしもし警察が宗教団体の壁を乗り越えて、教団内部に捜査のメスを入れていれば、坂本事件は早期に解決していたはずである。そうすれば、その後の松本サリン事件や地下鉄サリン事件も存在しなかったはずである。
3 オウムは、その後も暴走を続け、94年3月、巨額の財産を奪う目的で、宮崎県内の旅館経営者である資産家を拉致した。拉致された父親を救出しようとした家族は、まず宮崎県警に掛け合った。宮崎県警は、被害者の姿が最後に確認された場所が東京都内のオウムの付属病院であったため「管轄は警視庁」として捜査を開始しなかった。一方警視庁は、「拉致事件とするならば,管轄は事件が発生した宮崎県警だ」として捜査に着手しなかった。宮崎県警と警視庁がそれぞれ管轄のなすりあいを行ったのだ。結局、宮崎資産家拉致事件は、地下鉄サリン事件後に、ようやく捜査が開始された。警察の前に立ちはだかった「管轄の壁」がオウムの暴走を許すこととなった。
4 オウムは、さらに暴走を続け、94年6月、長野県松本市の住宅街にサリンを散布し松本サリン事件を引き起こした。死者は8人、受傷者は約600人に及んだ。戦争状態にない国において、サリンが一般市民に対して無差別に使用された世界初のテロ事件であるにもかかわらず、まず疑われたのは、自らも被害を受けた住民KY氏であった。そのため捜査の矛先がオウムに向けられることはなかった。