オウム死刑囚・元信者にとってのオウム事件―地下鉄サリン事件から25年②(2/2ページ)
フォトジャーナリスト 藤田庄市氏
集中修行を瞥見する。睡眠は3時間。教学は、麻原の説法テープをヘッドホーンで聞きながらテキストを読んで記憶し、テストをされた。身体的修行ではヨガの過激な呼吸法が行われ、外見は仏教的な「五体投地」の唱え言葉は、麻原への帰依を誓うものだった。それが1カ月に600時間という「極厳」の時期すらあった。「帰依マントラ」も「グル麻原尊師に金剛の帰依をいたします」と10万回唱えることが課せられた。瞑想のグルヨーガでは仏の姿の麻原を観想し、そのチャクラに順々に供物を捧げた。そうした修行のなかで出家者は光を見るなどの神秘体験を得た。そして、ここが重要なのであるが、それらの体験は麻原の超越的力によってもたらされるものであり、修行成就の認定も麻原一人が握っていた。修行は麻原への自発的積極的霊的隷従を完成し、深化させた。
「すべてはグルの意思次第である。グルはいつも優しい。グルだけが本物である。絶対的なもの=グルであり、真理である」(早川が成就を認定された時の彼の日記)
修行の外見はヨガや仏教の形態をとるが、内実はすべて「グルのクローン」になるシステムであった。94~95年3月に行われた薬物イニシエーションは、LSDなどによって神秘体験をさせ、麻原崇拝と出家への強引かつ促成の手段にも使われた。
つまり、入信前に抱いていた純粋な「生きる意味」や真理探究の意思は、「解脱」を求めて出家するや、麻原への自発的積極的な霊的隷従、究極的には無差別「救済殺人」へと導かれてしまうのだった。その土台にはまた、人々を「凡夫」と蔑む選民思想、宗教的優越感が横たわっていた。「魂は等価ではない」と、アリの群れを火炎噴射機で焼き殺す瞑想を麻原は語った。アリは社会の人々、焼き殺すのは麻原=オウムであることは言うまでもない。
麻原がチベット仏教の名で「ポア=救済殺人」を初めて説いたのは87年1月である。師が命じれば殺人も解脱のための修行であるとし、自分も前世では人を殺したと語った。その後も麻原は身近なレベルでポアを説き、側近にポアは内面化されていった。その最初の現実化が田口事件だった。
坂本事件(89年11月)はポアを社会に向けた一歩となった。その前提として現代人は生きているだけで悪業を積み地獄へ堕ちるという麻原の輪廻転生説がある。妻子まで殺害した理由を新実は法廷でこう供述した。
「縁のない人は救済できない。奥さんたちが悪業を積んでいるか積んでいないかは二次的なこと。菩薩と縁をつけ、輪廻せず、そこから脱出できるなら、一瞬の死の苦しいほうが、未来に味わう苦しみを考えたとき、そのほうが良いのでないかと考えました」
菩薩とは麻原を指す。「救済」殺人のポイントはこの麻原にある。麻原はシヴァ神の化身であり、麻原だけが人の三世と死ぬ時期を見極め、カルマを引き受け、魂を高い世界に導くことができるというのである。
総選挙惨敗後の90年4月、麻原は20人ほどの出家者を集めボツリヌス菌散布計画を指示した。無差別大量殺人、すなわちヴァジラヤーナの救済の本格化である。麻原は自分の考えを明かさず、信者の霊的隷従レベルを見極め、選別し、指示した。この時もそうであった。出家者たちはすでにポアが内面化されていた。広瀬は菌培養の責任者だった。
「ヴァジラヤーナの救済をしないと現世の人々を救えない。悪いことという考えは浮かびませんでした」(法廷供述から)
ボツリヌス菌散布は失敗した。だが麻原はヴァジラヤーナを諦めず、執拗に実現を図り、ついにはサリン合成に到るのである。地下鉄サリン事件(95年3月)の散布役を指示された時、林郁夫(無期懲役囚)は、「マハームドラーの修行」と言われて、「救われたような気持ちになった」、そして「サリンをまくことはヴァジラヤーナのポアの実践なのだ」と「納得」したのだった(『オウムと私』文藝春秋社)。
オウム事件後、麻原から指示されたら自分もサリンをまいたかもしれないという元信者の声はいくつも聞かれた。死刑囚たちは特別な信者だったのではない。信者たちは皆、基本的に同質(グルのクローン)だった。事件は、目指したはずの宗教的理想とは正反対の無残な終着点であった。
早川は麻原のカリスマ性と事件の宗教的動機の解明を一貫して法廷で主張した。だが、「最後まで理解されなかった」と痛憤をかかえたまま処刑された。最高裁で死刑が確定した直後、最後の面会時、早川は私にこう告げた。
「(事件は)また起こりますよ」
【筆者注記】なお「社会」からの見方として、降幡賢一『オウム法廷』(全15冊。朝日文庫)と青沼陽一郎『オウム裁判傍笑記』(小学館文庫)を推す。前者は新聞記事とともに法廷証言をはじめ裁判資料を豊富に収録し貴重であり、後者は法廷の滑稽さを冷徹に描写している。