天台座主への道 ―経歴法階とは―(1/2ページ)
大正大仏教学部特任准教授 木内堯大氏
永禄6(1563)年に来日したルイス・フロイスの著作である『日本史』に、「日本で新たな宗教を布教するには比叡山延暦寺の許可が無ければ不可能である」と書かれている。このように、かつて延暦寺は日本の宗教界において最も強い権力を保持していた。また、フロイスが「教皇」とたとえた天台座主は、その天台教団の統轄者としての立場にあり、「台嶺の棟梁」とも呼ばれる存在である。
『天台座主記』によると、初代の天台座主は、伝教大師最澄とともに唐へ渡り修学をした義真とされる。義真は延暦寺で初めて行われた大乗戒授戒会の伝戒師をつとめた人物であるが、実は当時から「天台座主」という呼称が存在したわけではない。記録上で「天台座主」と呼ばれた最初の人物は、第3代の慈覚大師円仁である。太政官から円仁に対して天台座主の補任状が正式に発給され、以来、一門統轄者として天台座主の名が用いられるようになった。
第18代天台座主の慈慧大師良源は摂関家の藤原忠平、師輔らの後援を得て、比叡山の復興を成し遂げ、比叡山中興の祖と呼ばれる。また、良源の弟子である第19代座主尋禅は藤原師輔の子であった。以来、天台座主の多くは権門出身となり、特に近世では皇族出身の法親王による天台座主が多く誕生することとなる。
良源の功績として、広学竪義を創始したことがあげられる。広学竪義は教学に関する問答であり、竪者と呼ばれる受験者にとっての教学試験という意味合いがある。この時の論題を決定する任にあたるのが、探題であった。良源の指名によって、最初の探題となった禅芸僧都のもと、安和元(968)年の六月会に合わせて初めて広学竪義が行われたという。
このように広学竪義の算題を選定する役割を担う探題は、延暦寺の教学上の最高責任者とも言える立場であった。しかし、あくまでも教団の統轄者としての天台座主とは異なる地位であった。現在の天台座主は、探題の中でも最も早くその任についた首座探題(古探題)が勤めることとなっているが、そのような事例は当初から幕末まで数例しか見られない。明治3(1870)年、第232世座主久住豪海が法華大会広学竪義において探題をつとめ、以来、首座探題が天台座主を兼ねる慣例が始まっている。明治新政府による神仏分離政策によって天皇家と仏教が離されたことが、新たな慣例が作られた要因となったことが推測される。
それでは探題となるにはどのような階梯を進む必要があったのであろうか。資料の残る焼き討ち以後には、例外もあるが、望擬講→擬講→已講→探題という法階を経る必要があったことがわかる。このことを経歴法階という。
現在ではこのような経歴法階の階梯には、延暦寺一山の長老、宗派行政における重鎮、学識経験者、地方大寺の住職等の選ばれた僧侶のみが進むことができる。
天台座主の第一の登竜門である望擬講になるために必要な条件は、まず延暦寺で行われる天台会講経論義霜月会法華十講、及び山家会講経論義六月会法華十講において、問者・講師を務めることである。霜月会とは天台大師智顗の命日(11月24日)に報恩謝徳のために行われる法要であるが、現在ではあらかじめ10月23日・24日の両日に実施されている。山家会とは伝教大師最澄の命日(6月4日)に行われる法要であり、現在では4月20日、21日の両日に行われている。