顕・密「聖教」に見る日本中世の仏法(2/2ページ)
日本女子大名誉教授 永村眞氏
また密教の「聖教」として、醍醐寺に伝来する「菩提心論灌頂口決」に目を向けたい。本書は龍樹造「菩提心論」の偈頌に記された「入如来寂静智」の秘印・秘明をめぐり、醍醐寺報恩院実深から根來寺頼瑜が伝授された秘事口伝たる「口決」である。この「口決」には秘印・秘明と共に、その所作がもつ教学的な意義が示されている。付法にあたり師僧が受者に与えた「印信」とならぶ「口決」は、事相の「聖教」と教相の「聖教」の両面をもつ。密教における「聖教」には、密教経典や弘法大師の著述を詳解する教相の「聖教」とは別に、修法の所作や道場荘厳などを掲げた事相の「聖教」が数多く撰述された。
しかし事相を教学的に説明する「口決」は、「教相」と「事相」が一体の「聖教」といえる。少なくとも鎌倉時代より、教相と事相は一体とは言え別個に修学されるようになるが、今日の真言宗における両者の懸隔は、明らかに中世よりも広がっているように思われる。
顕・密にわたる「聖教」は、寺院において如何に仏法が受容されたかを語るとともに、寺僧が如何なる修学活動を重視し、どの「聖教」を拠り所にしたのかを明らかに示す。
ここで明治維新後に寺院の通例とされた一寺一宗という現象が、近世以前に決して一般的ではなかったことを再確認しておきたい。弘仁14年(823)、嵯峨天皇が弘法大師に東寺を勅施した際、真言宗僧が寺僧の条件とされたことは知られる。しかし弘法大師は寺僧に対し、真言宗を本宗とし併せて法相・三論宗の修学を勧め、顕教を学べば真言宗の優位が理解できると説いた。
また東大寺が真言宗を寺内に受け容れた契機は、弘仁13年(822)、嵯峨天皇の勅による東大寺真言院の創建にある。真言院は平安中期にいったん廃絶するが、聖宝により東南院が創建されて真言宗が寺内に定着し、東大寺は「八宗兼学」に相応しい仏法を継承することになった。この東南院を創建した聖宝は、東大寺の三論宗徒としてあり、後に真言宗に傾倒して貞観16年(874)、京都山科に醍醐寺を草創した。醍醐寺は真言宗本山として今日に続くが、実は創建期から近世に至るまで真言宗と三論宗を相承する兼学寺院であった。
さらに鎌倉時代より大和長谷寺や紀伊金剛峯寺・根來寺では真言宗と共に、法相・三論・倶舎などの諸宗が修学され、諸宗教学を学ぶため諸国から「客僧」が集まり、この仏法興隆の様は近世を通して続いた。加えて東・西本願寺を中心に多くの末寺を擁した近世の真宗では、宗僧養成のための学寮で、宗乗(真宗教学)と共に余乗(真宗以外の仏法)が修学され、真宗僧の中から倶舎・法相等の碩学が輩出した。
今日では本山も末寺も特定の宗を掲げることが通例であり、東大寺は華厳宗、醍醐寺は真言宗、西本願寺は浄土真宗と称することに普通は疑問を抱かない。しかし先述の通り、東大寺戒壇院では、南北朝時代には授戒作法のための戒壇上で、密教儀礼の伝法灌頂が催され、醍醐寺では平安時代より開山忌日に三論宗による竪義が勤修されていた。今日から見れば奇異にも思える、宗の枠をこえた法会の勤修であるが、その一例として醍醐寺御影堂竪義を挙げたい。
上醍醐寺の御影堂は開山聖宝の御影と遺骨を安置し、7月6日の忌日には同堂で祖師供養の法会として竪義が勤修された。この竪義は平安後期に創始され、その職衆の一部には東大寺僧が出仕していた。竪義は慧遠著「大乗義章」の「賢聖義」等から問題を定め、竪者と問者・精義が問答を交わす三論宗の論義であり、竪者・問者は上醍醐寺に止住する顕密兼学僧が、精義には東大寺から学頭が出仕していた。平安時代に創始されてから室町時代まで継承され、後に中絶を経て慶長5年(1600)、座主の義演准后により再興された。そこで令和2年に、醍醐寺が創建期より継承してきた三論宗の御影堂竪義(竪義会)を、東大寺との連携で復活する運びとなった。ただ残念ながらコロナ禍のもとで今年7月6日に予定されていた勤修は、延期されると聞いている。
このように醍醐寺・東大寺を始め諸寺院が長い歴史の中で相承した諸宗は、「兼学」という仕組みの中で幅広く寺院・寺僧に受容され、その仏法のもとで多彩な法儀が催され、多くの「聖教」が生み出された。諸寺院には一宗に限らぬ教学が定着し、その仏法を支える寺院・寺僧の宗教活動こそが、「日本仏教」の特質の根幹をなしたと言えよう。