宗教的言説の難しさ―曽我量深没後50年④(2/2ページ)
真宗大谷派教学研究所助手 都真雄氏
そこには曽我の宗教的自覚および実践的感覚が関わっていると推測される。と言うのも凡夫には、自らに如来蔵があることが実感できず、実感できるのは罪悪深重なる凡夫性であるからである。
曽我は法蔵菩薩の清浄性のみではなく、残存する煩悩に着目している。そのために凡夫性を表す阿頼耶識を用いたのである。誤解を受けるとしても、浄土真宗の宗教的実践においては、そのように言わずにおれなかったのであろうし、同時に、宗門の状況から真宗再興を願う宗教的使命感があったとも考えられる。
平川が指摘しているのは、そのように個人に感得された意味と、数種類の言語の諸用例から総合的に判断した意味とは異なるということである。その指摘は、浄土真宗のみではなく、広く大乗仏教の経典や論書における術語史を踏まえた上での指摘であると言えるだろう。
そこから思われるのは、現代の仏教学者の先学が述べようとすることとは、広く言葉の用例を精査し、聖教を厳密に読解するということであり、それによって思想自体に差異が生ずるということなのであろう。その上でさらに思い出されるのが、小谷氏の次の言葉である。
文章を正しく把握する努力をされずに、「コトバ」では簡単に伝えられない「深い」意味の領域に至り得ることを主張されるとすれば、それはもはや真宗を神秘主義として把握しようとされることになる。(『曇鸞浄土論註の研究』法藏館、433~434ページ)
この言葉は自らの実存における自覚の重要性を感ずる筆者にとって、厳しい指摘であった。
また聖教を厳密に読解するということと関連して、否応なく思い出されるのが、仏教者の様々な戦時中の発言である。
これについて言えば、浄土真宗のみではなく多くの仏教の諸宗派において見られたことであるが、残念ながら仏教者が戦争を肯定していたのは明らかな事実である。当時としてはむしろ肯定されるべき通常の発言であっても、現代では考えることができないような、戦争肯定の表現や教学的内容が頻出している。
例えば曽我は、41年の真宗教学懇談会において、父を天照大神とし、母を阿弥陀仏として、「父と母は形は二つあるが絶対である。子より見れば一体である。対立するものではない」(『教化研究』145・146巻、真宗大谷派宗務所、280ページ)と述べている。
さらに44年、京都教学錬成所主催の中等教員錬成会において講演を行っているが、その際、曽我は「天照大神と阿弥陀如来とは自ら一つになって来る」(『日本世界観』弥生書房、69ページ)と述べている。
これらの言葉から、曽我は数年に渡って近似する内容を説示していた可能性がある。当時、仏教の教学に頻繁に触れることのない人々が、このような天照大神と阿弥陀仏を同一視するような言葉を聞いたとき、どのような影響を受けただろうかと考えざるをえない。
このような曽我を含めた戦時中の仏教者の諸々の言説について考えた場合、思想について考究する前に、厳密に経典や論書の言葉を読解することの重要性を感ずる。
戦時中の出来事は、平時では考えが及ばないものであり、過酷極まりない状況がある。また理論と実践は異なり、言葉のみですべてが表現され、それのみで伝達されるわけではない。文献学や歴史学等の学術的な方法にもやはり限界は存在すると思われるが、曽我を含めた戦時中の教学者たちの発言は、ある意味において経典や論書等の聖教には直接的に見いだされない言外の領域に入ったと言いうるし、またそれは見方によれば、時勢に適応するうちに、仏教以外の思想が仏教内部に流入したとも言いうるからである。
筆者自身、それらの先学の言葉をどのように捉えればよいのか、未だ解決するに至っていない。戦時と平時は異なるものであるし、それらは先学の本心ではなく、戦時中の止むに止まれぬ言葉であったかもしれない。
そのように思って先学の戦時中の言説と向き合うことから生じる苦悩を遠ざけることは容易である。また平和な現代の時代意識から戦時中の先学の言葉を徹底的に否定することも容易である。しかしその両者を超えて先学の戦時中の言動が肯定されるべきではないことも明らかである。
戦時の教学について検討することは、平時に教学について考究するのと同様に、私にとって重要な課題である。その中で宗教的な言説に向き合うとき、その難しさを感じずにはおれない。