曽我量深の「還相回向」理解をめぐって―曽我量深没後50年③(1/2ページ)
真宗大谷派教学研究所助手 藤原智氏
近現代における真宗教学に多大な影響を与えた人物が曽我量深である(詳細は本連載①の名和論考参照)。曽我の代表的論考を収録した『曽我量深選集』全12巻(弥生書房、以下選集)を披けば、そこに1898~1970年の、70年以上にわたる思索を見ることができる。明治、大正、そして昭和の戦前・戦中・戦後と激動の時代のなかで、曽我の思索は常に展開し続けた。その全体を押さえ、評価することは容易なことではない。
真宗学に立場を置く曽我の思索は、基本的には親鸞の思想を明らかにしようと営まれたものと言えよう。しかし、曽我の論考を尋ねていくと、それは親鸞の思想を明らかにするというだけではなく、さらに親鸞の思想を手掛かりにしつつ阿弥陀仏の救済とは現在の自己にとっていかなる事柄として把握されるのか、という質の思索であることに気付く。それゆえ、曽我の論考は極めて個性あふれる表現となる。そこに賛否両論がありつつも、曽我は近現代の真宗教学に非常に大きな影響を与えたのである。
さて、その曽我の思索のなかで、その後の真宗教学上で大きな議論となっているのが「還相回向」である。まず前提として、この「還相回向」について簡単に説明しておこう。
回向とは、天親の『浄土論』において利他的実践を表す概念である。それについて曇鸞は『浄土論註』で、回向に往相と還相の二種の相があると解釈した。その往相は、自らが修めた功徳を一切衆生に施し、その衆生と共に往生していくというすがたである。そして還相は、浄土に往生しさとりを得て後に、娑婆世界に戻ってきて一切衆生を教化し仏道に向かわせるというすがたである。
親鸞は、この曇鸞の往相・還相という言葉を非常に重視するのであるが、そこに「如来の回向」という独自の視点を入れ込む。それは、本来は往生を願う者の実践であった回向を、阿弥陀仏の実践と捉えなおすものである。そのため、往相については阿弥陀仏が自らの功徳を一切衆生に施し、往生せしめる本願のはたらきとして把握される。
問題は、そのような如来の回向という視点において、還相がどのように理解されるのかである。これについては、様々な思索がなされてきたが、曽我の修学期にあたる明治期の大谷派では、江戸期の高倉学寮講師である香月院深励(1749~1817)の理解が通念となっていた。
それは、命を終えて浄土に往生した後、娑婆に戻って衆生を利他教化しようという志願とその能力の全てが如来から与えられる、という一点に限定するものである(拙稿「真宗教学史の転轍点」『近現代「教行信証」研究検証プロジェクト研究紀要』第2号)。曽我の「還相回向」に対する思索も、このことを踏まえた所から始まる。
曽我の還相回向理解について、そこに画期的な意義を見出し、現代の真宗教学に広く影響させたのが直弟子の寺川俊昭であった。寺川は、あくまで親鸞研究においてだが、自身に決定的な教示を恵んだものとして、曽我の「自己の還相回向と聖教」(1917年3月)という論考を挙げる。
この論考で曽我は「自分は旧来の宗学に対して少なからざる反抗心を持つて居る」(選集3・153ページ)と述べ、還相回向について「単に現在の伝道欲の意に任せぬ為めの消極的反影と想ふてはならぬ。唯何もかも死んだ後と、徒に絶望的慰安してはならぬ」(同170ページ)と記す。それは、先の深励的理解を通念とする当時の宗学に対する批判的考察であった。
「自己の還相回向と聖教」のなかで、最も有名な一節を引こう。
無上涅槃の霊境は我の往相の行の究極の理想であるが、その涅槃の大用たる還相の利他教化は遠き未来の理想であらふと思ひきや、現に自己の背後の師父の発遣の声の上に、已に実現せられてある。われの伝道的要求は、我の教を受くる所に於て已に満足せられてある。(同156ページ)
ここで曽我は、通念として来世の理想として語られていた還相の利他教化を、むしろ自己に対する師父の教化の恩徳において見出すという理解を示すことになる。寺川は、この理解こそ親鸞の知見に参入するものとして高く評価したのであった。