曽我量深の「還相回向」理解をめぐって―曽我量深没後50年③(2/2ページ)
真宗大谷派教学研究所助手 藤原智氏
こうして寺川は曽我の還相回向理解を上記の一点で押さえるのであるが、しかしそれでは「われの伝道的要求」と曽我が語っていることが十分に了解できないのではないか、という疑問が生じる。むしろ曽我は続けて、「此厭世的なる往相欲を裏づけ、此往相欲をして真に意義あらしめる還相欲のあることを軽視してはならぬ」(同157ページ)と語っている。我々の往生の願いを真に意義づけるのはそこに還相的利他教化の欲願があるからだ、と曽我は言うのである。
さらにはそれを『観無量寿経』で韋提希が釈尊に救済を求めたことに託し、親鸞は「王妃韋提の願求の上にはや無意識的なる還相的大意志の表現を見て居られるのである」(同158ページ)と、「無意識的なる還相的大意志」といった言い方でも確かめていく。
このように曽我が語る衆生の意識の底に動く還相的大意志といったものを、寺川が取り上げることはない。寺川は、曽我の還相回向理解について「一種の了解の揺れを感じます」(『寺川俊昭選集』第7巻、文栄堂、186ページ)と、そこに幅があることを認めつつも、先の「師父の教化の恩徳」という理解以外は斥けるのである。
しかし、それでは曽我の思索を総体的に理解することにはならないのではないか。還相回向に関する寺川の議論は真宗教学上において高く評価されるべきだが、曽我研究という視点から見れば不明瞭さをもたらすことにもなった。
このような寺川の議論に対する指摘の一例として、幡谷明を挙げよう。幡谷は還相回向に対する理解の仕方を、「往相の証果としての還相」「往相の背景としての還相」「往相の内徳としての還相」という三つに分類する。
第1は深励に代表される通念のそれであり、第2が寺川の取り上げた理解である。幡谷も、曽我の根本的立場は寺川の論じる所にあることを認める。けれども、それでは曽我に対する一面的理解ではないかとして、それに止まらない曽我の言葉を紹介する。
幡谷は第3の理解に関する言葉として、1967年10月27日の曽我晩年の発言を取り上げている(『増補大乗至極の真宗―無住処涅槃と還相回向―』方丈堂出版、132ページ)。そこで曽我は「還相回向は無意識、往相は意識である」「往相と還相が同時に、矛盾も撞着もなく、往相即ち還相、還相即ち往相とはたらいておる」(『親鸞の大地』弥生書房、87ページ)などと述べ、現在の意識の底にはたらく無意識の還相ということを語っている。
幡谷はこれを「往相の内面としての還相」とするが、一見して「自己の還相回向と聖教」での「無意識的なる還相的大意志」という理解に通じることは明らかであろう。
ところで、この曽我の発言の時期に注目したい。1967年10月という時期は、曽我が繰り返し「往生と成仏」という題で講演を行っていた時期である(拙稿「曽我量深の『往生と成仏』論について」『親鸞教学』第110号)。曽我の「往生と成仏」論は、この二つを「往生は心にあり、成仏は身にあり」という関係で捉え、信心獲得において往生という意義があると積極的に語るものである。
同月31日の講演「往生と成仏」を見よう。その終わりにおいて曽我は次のように言う。「願生と得生とが同時に成立してくる。それから、往相と還相というものは、やっぱり同時に成立するものである」(選集12・216ページ)
この発言が、先の幡谷が取り上げたものと同じ文脈であることに疑問の余地はない。つまり、寺川に対する指摘として幡谷が積極的に取り上げた還相に関する曽我の言葉は、「往生と成仏」論との密接な関係にある。この点は重要である。
なおあえて一言すれば、寺川は曽我の「往生と成仏」論も高く評価するが、それが還相理解と関わる点には一切言及しない。
曽我の議論の複雑なところは、曽我自身の表現の難渋さと共に、直弟子たちの曽我(および親鸞)に対する強い思い入れもあり、そこにある種のイメージが出来上がっている点である。没後50年を迎える今、曽我の思索を丁寧に読み解き、その総体として把握していく営為が求められる。