曽我量深における「法蔵菩薩」感得の意義―曽我量深没後50年②(2/2ページ)
真宗大谷派教学研究所所員 武田未来雄氏
第1は「我は我なり」で、それは人間はどこまでも迷いの存在であり、如来に成れないことの自覚を表す。第2は「如来は我なり」で、それは自己に迷いの自覚を生じさせる真主観として如来が我となることを表す。そして第3は「(されど)我は如来に非ず」で、それは「我は如来である」との邪執を破邪することを表す。そして再び第1の「我は我なり」にもどり、この三綱は循環して尽きる所がないと言う。
つまり、「如来は我なり」と聞くと、凡夫が如来に成ったかのようにごう慢に聞こえたり、あるいはそう思ってしまう自己が居る。そのために第3である「我は我にして、如来に非ず」とおさえられる。そこで、第1の「我は(如来ではなく)我なり」との自覚になるのだが、この自覚には二重の意味がある。
すなわち単に自分が凡夫であると自覚するのみではなく、如来が我となって生じる自覚なのである。このようにしてこの三大綱目は永久に繰りかえし、深まっていく歩みとなるのである。
では、どうして凡夫が凡夫との自覚に如来が我となる必要があるのであろうか。そこで、この如来が我となって我に自覚をうながす真主観となることが、実は「法蔵菩薩降誕」の意義であると曽我は明らかにしたのである。
曽我は前偈論文「地上の救主」で、法蔵菩薩は歴史上の人として出現したのではなく、直接に我々人間の心想中に誕生するという。それは救済を求める所の自我の真主観として、あるいは如来を念ずる所の帰命の信念の主体として誕生すると言うのである。
つまりそれは、我々凡夫が利害打算的であり、真実に自己が煩悩具足と頷いたり、あるいは純粋に如来に帰命する心は起きないことを表すのである。
だから親鸞は「『帰命』は本願召喚の勅命なり」(東本願寺出版『真宗聖典』177ページ)と言ったり、信心の獲得は「如来選択の願心より発起す」(同上210ページ)と言っているのである。曽我の法蔵菩薩論は、その親鸞の教学的意義を、生活の中で実践しつつ、我ならざる主体が我と成ることであると感得されたのである。
伝統的に真宗では、法話などで帰命の心は、親が子を呼ぶ、親の呼び声であると言われていた。しかし曽我は、ただ一方的に上から如来が衆生を呼ぶのではなく、呼ばれる側の、子心の立場を体験して至心信楽の本願を発されたという。それが如来の人間化、法蔵菩薩降誕の意義である。我々の衆生の苦悩や我執を体験して、その中から発されたのが本願なのである。
曽我は法蔵菩薩という主体概念を明らかにすることによって、煩悩具足の凡夫の自覚や、如来への帰命が、自己にも起こり得ることを明らかにしたのであった。
曽我が大切にしようとしたことは、如来の智慧によってどこまでも自己の現実相が知らされることである。教えの聴聞を通して、罪業の自己が知らされることは、同時に仏智によって照らされることでもある。如来の智慧海が無底であるように、我々の罪業もはかり知れぬほど底が深い。救済の自覚は停滞するものではない。真宗の三大綱目の第3があるように「如来は我なり」のところで止まってはならないのである。
信心の智慧によってどこまでも我執存在であることを知らされることは、我々にとって受け容れがたい事実であり、つらいことである。しかし、この苦悩の闇こそが、法蔵菩薩発願の精神に同感し、共感する機縁となる。そこに本願救済の感動がある。それによって、ただ一方的に清浄なる上位から呼ぶのではなく、救済を求め叫ぶ側の方、苦悩の闇のどん底にあって、我々と共に歩もうとする法蔵菩薩像が究明されたのである。
だから曽我の明らかにする自覚道には終わりや完成がない。どこまでも闇に向かっていき、その苦悩する生活の現場において一切衆生を平等に救おうとする本願の精神を見いだしていくのである。
曽我の法蔵菩薩論は、現在を生きる自分にとって如来の救済が成り立つのかを真剣に問うたものである。それは伝統されてきたものをただ受け容れるだけでは済まされなかった、明治近代の課題があったからである。
現代は、人間の自由主体、個の尊厳性を確保すると同時に、どこまでも自我の欲望を果たそうとする自我中心思想を超えていく課題がある。真実の主体を解明する曽我の法蔵菩薩論は、現代における真宗の信心の可能性を示唆するものがあるのではないだろうか。