曽我量深における「法蔵菩薩」感得の意義―曽我量深没後50年②(1/2ページ)
真宗大谷派教学研究所所員 武田未来雄氏
近代の真宗教学者である曽我量深はどのように親鸞の思想を解明したのであろうか。また、その思想は、現代を生きる我々にとってどのような可能性をもたらすものであろうか。
曽我の思想形成に決定的な影響を与えたのは、清沢満之の「精神主義」であり、曽我の長年に及ぶ真宗教学者としての営為は清沢によって出発点を与えられた。
清沢が生きた明治近代とは、それまでの江戸幕藩体制によって歩んできた真宗教団がその根底から問われる時代であった。そのような時代状況にあっても、なおそれまでの旧体制のままであろうとする真宗教団を憂いた清沢は、教団の教学の刷新を目指すべく、宗門改革運動を起こす。
しかし、この運動は挫折する。政治運動の力によって、制度やシステムを変えても、そこに出てくる「人」が変わらなければ宗門は変わらない。清沢の課題は、社会的な制度の改革よりも宗門人の一人一人の信仰的自覚の覚醒を待つことであった。
以後、清沢は、自己の信念の確立を課題とすると共に、東京で精神主義運動を展開し、苦悩する時代青年などに対して、世を生きるための信念の立脚地を提示した。清沢は、絶筆「我が信念」を著し、自らの身を以て如来を信じる意義について示したのである。
それは単なる論理的な証明ではなく、自らの身命を賭して証した、如来を信じる信念の告白であった。清沢は近代日本において如来を信ずるあり方を示したのである。
曽我が清沢から継承した課題は、このような自己自身を通して如来による救済の実在を証明することであった。
曽我は30代から50代ごろにかけて、雑誌『精神界』をはじめとする様々な書誌に次々と論攷を発表した。それらの論攷から、曽我はあくまでも自己自身の上で如来救済の実在を究明しようとしていたことが知れる。
それは清沢の課題の継承でもある。その思索は、如来のみならず、往相・還相の二種回向、念仏、信心、浄土といった真宗教学の重大な術語について、単なる学術的定義ではなく、どこまでも自己を通しながら、それらの言葉が現実を生きる者にとってどのような意義があるのかを明らかにしようとする歩みであった。
こうして曽我の自己の生きる現実の生を通しながらの考察は、遂に「如来は我なり」の一句の感得にいたる。曽我は、1913年7月、雑誌『精神界』において論文「地上の救主ー法蔵菩薩出現の意義ー」を発表する。その論文は、前年7月上旬に「如来は我なり」の一句を感得し、続いて8月下旬に「如来我となりて我を救い給う」、そして10月頃に「如来我となるとは法蔵菩薩降誕のことなり」と気づいたことの、自己の感得体験からはじまる(『曽我量深選集第2巻』408ページ)。
曽我は、如来を遠く西方十万億仏土に在すものとして、憧憬や祈願の対象として見るのではなく、如来の救済が現在の自己の上の事実となることを考究したのである。この考察の跡は、曽我の随想集である「暴風駛雨」においても見ることができる(『曽我量深選集第4巻』340~353ページ)。
ここでは、誤解を避けるために、「如来は我なり」と言いつつも、「我は畢竟我にして、如来に非ず」とも言う。そして、「如来は我なり」を正しく認識し、ここにはどのような意義があるのかを明らかにするために、「真宗教義の三大綱目」が発表された。