曽我量深研究の可能性―曽我量深没後50年①(1/2ページ)
真宗大谷派教学研究所所員 名和達宣氏
6月20日に真宗大谷派を代表する教学者・曽我量深(1875~1971)の50回忌を迎える。この節目を機に、本欄に「曽我量深没後50年」と題して同派教学研究所の研究者4人による論考を連載する。
本年は、真宗大谷派(東本願寺)における「近代教学」の象徴もしくは基軸ともいうべき、曽我量深の50回忌に当たる。
曽我は、1875年に新潟県で生まれ(旧姓は冨岡)、1971年の6月20日、京都の自宅で逝去した。曽我の96年にわたる生涯で特筆すべきは、5度にわたり宗門大学の教授もしくは学長に就き、また辞職をしている点である。真宗教団の歴史上で、これほどまでに教学の要職の就任・辞任を繰り返した人物は他にいないだろう。
最初に真宗大学(現・大谷大)の教授に就いたのは、「近代教学」の元祖・清沢満之(1863~1903)が学監(学長)を務めていた1902年であり、曽我はまだ研究院生であった。
しかし同年の秋、学生の騒動によって清沢らと共に辞職することとなる。2年後に再び教授に就くも、11年、当時東京にあった同学が京都へ移転するのにともない辞職し、新潟へ帰郷する。その背景には、教団の伝統的な学風・因習を重視する立場と、清沢の私塾・浩々洞の門流に代表される新潮流との確執があったと伝わる。
故郷で5年間の研究生活を送った曽我は、再び東京へ上り、『精神界』(浩々洞の機関誌)の編集を務めると共に東洋大学教授に就き、さらに25年、大谷大の教授となる。ところがその5年後には、教学の諮問機関で最高権威たる侍董寮より「異安心(宗義違反)」と見なされ、辞職に追いやられた。問題視されたのは、経典に説かれる法蔵菩薩を「純真なる宗教経験」として捉え直す視座であったとも伝わるが、真相は不明である。いずれにせよ、それは教団教学の「正統」より「異端」の烙印が押されるという事件であった。
とはいえ、曽我に師事する学生・門弟は絶えることがなく、在野で曽我及び同じく「異安心」の疑いがかけられ大谷大を辞職した金子大榮(1881~1976)を中心とする私塾・興法学園が結ばれた。そして時代は、十五年戦争期へと突入していく。
戦時下の曽我が関わった重要なトピックとして、1941年に東本願寺で開かれた「真宗教学懇談会」をあげることができる。この懇談会には、宗派当局に加え、代表的な教学の学匠一同が集い、約10年前の「異安心」事件以来、教団教学の要職から離れていた曽我・金子、そして清沢の筆頭弟子である暁烏敏(1877~1954)も呼ばれた。
当時の教団は、前年に発布された宗教団体法により、時局に応じた新たな宗制を国家に提出することが強要されていた。そしてそのためにも時代状況や当時支配的であった国体論(天皇制イデオロギー)と矛盾しない教学――「時代相応の教学」と呼ばれる――の表現が求められたのだが、伝統的な枠組みを重んじる侍董寮の学者では、その確立は困難であった。そこで当時の教団が求めたのが、曽我・金子・暁烏といった「近代教学」系の教学者だったのである。
懇談会の記録を追っていくと、参加者のなかでも特にこの三者から、時代との相応を意識した発言が出されていたことがわかる。しかもそれらは近年の多くの研究(中島岳志『親鸞と日本主義』等)で指摘されるように、阿弥陀仏と天照大神または天皇、日本の歴史と仏教の歴史とを重ね合わせる「日本主義」的な言説であった。