謎多い絵師・俵屋宗達の実像(1/2ページ)
日蓮宗大法寺住職 栗原啓允氏
江戸の最初期、慶長・元和・寛永期を彩った多くの絵師の中でも俵屋宗達は最も著名な一人でありましょう。「風神雷神図屏風」「蓮池水禽図」「牛図」等に代表される数多くの名作を残し、琳派の祖ともされる絵師です。しかし俵屋宗達その人の実像については関連資料が極端に少ないこともあり、その生没年すら不明とされてきました。しかし今日まで乏しい関連資料を詳細に読み解くことで、宗達の実像に少しでも迫ろうとする努力も研究者の間で積み重ねられてきました。
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宗達の俗姓は蓮池氏、或いは喜多川氏。俵屋という屋号を持つ京都の富裕な町衆の系譜にある絵師で先祖には蓮池平右衛門尉秀明、喜多川宗利などがあった。同人は1539(天文8)年には狩野一門の総帥である狩野元信とともに当時の扇座を代表する座衆であった。また36(天文5)年に生起した天文法乱の敗北によって京都を追われた日蓮法華宗本山が京都に還住が許された際、頂妙寺旧境内地の全てを買い戻して50(天文19)年、亡妻の供養のために頂妙寺に寄進した富裕な日蓮法華衆としても知られる。つまり俵屋は代々絵屋を家職とした一門の屋号であり、宗達はその工房を継承した絵師である。
そして俵屋の商品は宗達の時代、元和年間(1615~24)には俵屋絵、俵屋扇として評判を得ていた。また俵屋一門には絵屋に加えて織屋としての家職もあったようで、西陣の織師たちによって結ばれていた「大舎人座」の座衆として蓮池平右衛門、北川八左衛門などの名が見えるに加えて、彼らの系譜に連なると思われる蓮池平右衛門宗和なる織師の存在も明らかにされている。また01(慶長6)年に立本寺に大灯籠を寄進するとともに鷹ヶ峯光悦町に屋敷を所有した蓮池常有という人物などの記録がみられるも、彼ら相互の関係は不明である。
1946(昭和21)年、美術研究者の徳川義恭氏は当時、俵屋蓮池・喜多川第17代当主である喜多川平朗氏の協力を得て喜多川家伝来の歴代譜、頂妙寺墓所にある俵屋喜多川一門の供養塔の碑銘を調査し、蓮池平右衛門尉秀明に始まる俵屋喜多川宗家の系譜を明らかにされた。自著『宗達の水墨画』においてその調査結果を公表された中で「蓮池俵屋についてはそれを系統的に知り得ず、之が引いては宗達との関係を不明瞭にしているものと思われる」と述べられている。ちなみに現当主、第18代喜多川俵二氏は師父と同様に人間国宝として俵屋の家職を継承し頂妙寺大乗院と結縁されている。
俵屋宗達と本阿弥光悦は義理の兄弟の関係にあり多くの作品を共作していた。加えて宗達が紋屋井関妙持や千家第2代小庵とも茶の湯を介して交流があり、このことからも俵屋一門と本阿弥一門、紋屋一門相互の深い関わりが見てとれる。彼らはいずれも西陣、小川今出川上ル界隈に居住して其々に家職を営んでいた。
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以上がこれまで筆者が理解してきた宗達とその周辺の大まかな人物像です。