ティラウラコット遺跡発掘の現状(1/2ページ)
立正大教授 則武海源氏
釈迦族の居城にして釈尊出家動機(四門出遊)の地であるカピラ城跡と目されるティラウラコット遺跡では、英ダラム大学のロビン・カニンガム教授を中心に各国からの考古学者が参加した第3期考古学調査が終了した。
2018年2月、ルンビニーの笠井ホテルで開催された国際会議でティラウラコット遺跡の世界遺産登録に向け、現地で日本外務省のユネスコ人的資源開発日本信託基金(UNESCO JFIT)のもと進められているティラウラコットの発掘調査と関連づけ、今後ティラウラコットを世界遺産登録する方針が打ち出された。
この会議には各国仏教者や研究者と共にネパール地震後のネパール世界遺産暫定リストの策定に関わった西村幸夫神戸芸術工科大学客員教授や黒瀬武史九州大学准教授、森朋子札幌市立大学准教授といった都市工学の専門家やネパール日本大使館書記官なども参加し、今後のティラウラコット遺跡の発掘や世界遺産登録に向け日本も大いに関わっていく姿勢が示されていた。
ティラウラコット問題とは、この遺跡がカピラ城であるか否かという問題である。釈迦族の居城、釈尊出家動機の四門出遊の城、いわば仏教誕生発端の地ともいえるカピラ城の所在問題は仏教徒にとって永年の大きな関心事である。
このカピラ城は5世紀の法顕の『法顕伝』に「迦維羅衛城」、7世紀の玄奘の『大唐西域記』に「劫比羅伐窣堵」と記述され、その所在をめぐっては1896年、A・フューラーのニガリ・サガル池辺でのアショカ・ピラ発見を皮切りに、L・A・ワッデルのゴーティテハワならびにティラウラコット東門発掘、A・フューラーのサガルハワ発掘、W・C・ペッペのピプラハワー発掘と舎利容器発見、P・C・ムケルジーのティラウラコット発掘、W・ボストのティラウラコット発掘、岡教邃のティラウラコットの拘那含仏本生城説、D・ミトラのガンワリア説、T・N・ミシュラのティラウラコット発掘、B・K・リジャルのティラウラコット発掘、K・M・シュリバスタバがピプラハワー発掘、舎利容器・シーリング発見、と枚挙に暇がない。
現在、カピラ城の所在問題はインド領ピプラハワー説とネパール領ティラウラコットの2説が有力視されている。この2遺跡は国境を隔てて隣り合わせにあり、ピプラハワーは仏塔と僧院跡のガンワリア遺跡による仏塔+僧院跡の構造であるが、舎利容器が発見されたことを主要根拠としてインド側がカピラ城跡と主張して公園整備化が進められている。これに対しティラウラコットは『法顕伝』や『西域記』の記述による川の流域、王城跡の構造、周辺域に仏塔・僧院跡、アショカ・ピラの発見等を総合的に勘案しカピラ城跡とみているのである。
ティラウラコットは立正大学が中心となり1967~77年に発掘調査を行ったカピラ城跡であり、立正大学の考古学を世界的に押し上げた偉業が詰まった遺跡である。
この遺跡の発掘調査を発端として、全日本仏教会が多大な貢献をしたマヤ堂のマーキングストーンの発見やルンビニーの世界遺産登録へと発展し、日本とネパールの仏教交流の基盤となった場所でもある。
立正大学による発掘事業は、中村瑞隆元学長(法華経文化研究所長、仏教学)を中心に、久保常晴博士(考古学)、坂誥秀一元学長(同)、大村肇博士(地理学)、高村弘毅元学長(同)等多くの先学が参画した大事業であった。坂本幸男元学長、久保田正文元学監の尽力、日蓮宗、法華宗、法華系各教団の援助により当時としては破格の海外調査団を派遣することができた。