摂折論再考―その始まりと近現代までの展開(2/2ページ)
日蓮宗善龍寺住職 澁澤光紀氏
日蓮聖人の摂折論は、天台の解釈を踏襲した上で、独自に「教機時国序」の五義判を導入し題目下種を強調、その教説を自ら生きた。
すでに初期の1260(文応元)年5月の『唱法華題目抄』には教門(不軽品)が、また7月の『立正安国論』には行門(涅槃経)が示されていて、その概容をうかがうことができる。
諫暁の書として上呈された『安国論』では、摂折の基本形となる『涅槃経』の王仏両輪での正法護持がテーマとなる。『唱法華題目抄』では天台の不軽強毒を引き、末法の今を「謗縁を結ぶべき時節」として、末法凡夫には逆縁により謗ぜしめて下種の功徳を与え、堕獄をへて成仏させるという「毒鼓の縁」を明らかにした。
その後の龍口法難後の『転重軽受法門』では、「日蓮も又かくせめ(責)らるゝも先業なきにあらず」と述べ、「其罪畢已」の不軽の罪と滅罪に重ねて、毒鼓が招く法難が自らの罪を滅すると説く。
この龍口法難をへて「日蓮はこれ法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」と名のって、不軽の二十四字と題目の五字はこれ同じと宣べ、不軽行を末法逆縁のための題目下種行としていった。
また『開目抄』の摂折段では不軽品を折伏としているが、『観心本尊抄』の摂折現行段では四菩薩が垂迹して、折伏を現ずる時は賢王と成り摂受を行ずる時は僧と成るとしている。この摂受の僧は覚徳であり不軽でもあるため、不軽行は摂折の両義にわたっている。
最晩年の『諌暁八幡抄』では「末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益これなり。各々我弟子等はげませ給へはげませ給へ」と述べ、説く自らも謗る強敵も共々に成仏に至らしめる不軽行を、末法広宣流布の行規と定めた。
日蓮滅後には『立正安国論』中心に摂折が論じられたが、度々の法難で宗風は折伏主義から摂受主義になっていった。
その後、日本の近代化に沿って『安国論』中心に折伏主義を復活させたのは田中智学である。智学は『本化摂折論』を著し、摂折を超えた「超悉檀的折伏」の概念を示して、日蓮主義と名付けた折伏中心の教学を体系化した。
その折伏は『宗門の維新』において「侵略的に信仰せよ、侵略的に学べよ」と説かれて、下種論としても侵略=折伏として使命化した。下種は救済であり、相手が嫌がるからこそ深層意識に下種できるとする折伏下種論は、まさに侵略的に帝国主義化を進める大日本帝国の建設に沿ったものだった。そして日本天皇を賢王として、本門戒壇建立と世界の道義的統一の実現を託していった。
敗戦後においてその侵略的折伏を受け継いだのは、戦後民主主義を背景に折伏大行進を行った創価学会である。初期の『折伏教典』ではGHQのマッカーサーを日本の神々を叱り飛ばした賢王に見立て、「亡国は真の仏法発展の兆」として東洋への広宣流布を鼓舞した。その折伏の特徴は「宿命転換」と「王仏冥合」にある。
宿命転換では、折伏で誹謗されれば今の悪運(罰)が消え福運が増すと現世利益を強調。政界進出すると王仏冥合と国立戒壇を掲げて、公明党と学会の王仏両輪を目指した。これは政教一致批判で頓挫するも、連立与党に入り穏然とその形を実現したといえよう。
以上のように摂折は解釈されてきた。この流れを受け、今成師は『本尊抄』の摂折現行段を論拠に「日蓮聖人は(僧として)摂受による正法弘持を本懐として、不軽行を折伏としていない」と論じた。折伏を勢力折伏(暴力)に限定したその所論は、折伏立教を唱える門下から批判が集中したが、あらためて折伏と立正安国を考える画期的な機会となった。
そこには「国家と宗教」「宗教と暴力」の問題があり、また近現代の折伏主義の克服の課題があった。しかし、論争は「不軽行は摂受か折伏か」が焦点になり、ついに僧を離れた「勢力折伏」の問題を論及せずに終わっている。
今成師の所論の動機には、日蓮主義の克服と国際交流時代における折伏の否定があった。いま、様々な局面で共生と共存が未来への課題となる中で、今成師が提起した問題はまだ生きている。その課題を考えつくすことによって、今日の立正安国と日蓮思想の現代化が見えてくるのではないだろうか。